SPACE-U

 

意識

2007-2008

どんなにたくさんの自意識が輝きを放ったとしても、世界は何処までも繋がっていて途切れるところがない。輝きの一つひとつが無意識に世界を内包している。全てが自身で出来ているにもかかわらず、隔たりを感じているのは、自身が自身を食べ、無意識を呑み込もうとした口が無数に発生し、互いに相争ってきた歴史が繰り返されているということかも知れない。はたして痛みは食べ尽くされたのだろうか。

タカユキオバナ 

◆ 会期 2007年12月8日(土)〜12月22日(土)
◆ 会期 2008年1月12日(土)〜1月26日(土)
13:00〜19:00
◆ 会場 SPACE-・侑

* 2007年12月8日(土)18:00〜22:00

パフォマンス  山田 稔

参加費2000円 懇親会あり

* 2007年12月22日(土)18:00〜22:00

石の語り部  須田郡司

参加費2000円 懇親会あり

* 2008年1月12日(土)18:00〜22:00

ワークショップ「星の絆」 栃木美保

参加費2000円 懇親会あり

* 2008年1月26日(土)18:00〜22:00

パフォーマンス「言霊の幸ひ」 江尻潔

参加費2000円 懇親会あり

「意識」という異界を巡る

川島健二 

 SPACE・の小さな空間が、十四の札所によって成り立つ深々とした巡礼の道へと変貌した。それぞれの作品を霊場などといえば、ことごとしくなるに決まっているが、ゆるやかに結ばれた作品を順路にしたがって体験してゆくのは、変化にとんだ風光の中を歩む巡礼の旅によく似ている。ときにじっくりと止まっていたい場所もあれば、足ばやに過ぎ去ってしまいたい場所もあるかもしれない。それら総てを含め、巡礼の道なのだ。ここには、まぎれもなく五感を揺り動かす作品群が存在する。
 
 「参加型」と主催者のタカユキオバナが称するように、SPACE・の空間では、鑑賞者が作品に能動的にはたらきかけることでその作品が完成するというケースが多い。それが今回の独自な体験を可能にした一つの理由でもあろうが、「意識」という主題の重力が決定的である。「意識とは?」と問われて差し出された答案が、これら十四の多様な作品群であったともいえる。そして同時に「答え」は、それぞれの作品の前に立つ者にとっては「問い」である。
 
 作品を作品として成立させるための巡礼者の行為は、その問いを深めるための行為であろう。「結ぶ↓灯す↓掬う↓浮かべる↓入れる↓覗く↓見る↓払う↓聴く↓書く↓座る↓舐める↓感じる↓垂らす」。十四作品に望まれる行為の連鎖をごく単純化して取り出せばこんな具合である。あたかも儀礼的パフォーマンスの深まりを体験するようで、意識の深みを垣間見る思いがする。
 
 では意識の深みへ、どんな風に降りてゆけるのか。それは行為の宇宙論的背景を感知する五感の微細なふるえが導いてくれるだろう。十四作品はこうして、意識の深みへ降りてゆく。「自意識」というひどくやっかいな代物もあるが、それを意識の特殊性として否定するのは得策ではない。自らの出自とする広大な意識の領野に、それをもう一度投げ返し、再教育すればよいのである。「意識」展の試みも、そうした再教育の根源的な実践に思える。
 
 「意識」展を体験してから数日後、ある有能なキュレーターの日常を追ったTV番組を見ることがあった。そこで実によい言葉に出会った。彼女は「プロフェッショナルとは?」という問いに答えて、次のように言ったのだった。「いかなる条件にもかかわらず自分の居場所をユートピアにできる人」。ここで問いの制約にこだわる必要はないだろう。答えは問いのスケールを超えて、とても魅力的であった。私が久しく待ち望んでいた言葉であったのかもしれない。これを粗野な精神論と取り違える人はいないだろうが、慣習化された日常の中に、そんな回路が用意されていると想像できなくても不思議ではない。日常は何の面白みもなく、退屈なものなのだ、と。けれども、こんな通念こそ、自意識のフィルターが生み出したものに他ならない。
 
 彼女が発した「ユートピア」という言葉に、それが内包する二つの意味を取り出すことができるだろう。ユートピアの「理想郷」的側面と「非在の場所」的側面と。では、どこにもない理想の世界が存在するということは如何なることなのか。ここで問いは「意識」にさしもどされる。彼女が「ユートピア」といったとき、意識の深さと広がりに、その培養基を見ていたことは疑いないだろう。
 
 意識界を遡行し、横断する力。恐らく、それらの力は自意識の小賢しさにめげず、追放されることを拒み、待機し、出番を待っているだろう。藝術とは、その待機所の別名である。
 
 ここに収められた十四のメッセージは、また作品とは別に示唆深く、作品と言葉の間に生成するもう一つの作品を味わう楽しみを与えてくれるが、とりわけ興味深いのは、ユートピアを輪郭づける様々な言説を、そこに見出すことができるということである。「相矛盾するものを統合するはたらき」(江尻潔)「あなたが存在することの奇跡の輝き」(栃木美保)「空の遠くまで自分の意識がつながっていくような感覚」(安岐理加)「空の小国」(ほか)「非在の地は思いのほか身近にある」(言水ヘリオ)「私の意識の外にある予期せぬ何かが発光している」(鏡閑)。意識への問いがいささかもことごとしくなく、ユートピアへの与件へとつながってゆくというのは実に意味深い。
 
 ここで「十牛図」という禅のテキストを思い出す。牛を見失った牧人がふたたび牛を見出して、その牛と一体化してゆくプロセスを十の図で表したもので、禅の修行者のために北宋時代に作られたものである。「真の自己」へ到る境位を図示した十牛図に接したのは、ちょうど三十年前で、「自己の現象学」(上田閑照)という文章の中であった。その出会いの印象は今も鮮烈である。牛を求める牧歌的な風景が、八番目の「人牛倶忘」で何も描かれていない円だけになる。一見悟りの境位を示した図に見えるが、その先があるのが深い。真の自己を求める旅が、何と十番目では、老人と若者の出会いの図となって出現しているのである。「真の自己」が自己と他者の関係性において成り立っていることが読み取れる。
 
 そうなのだ。意識は、その本質においてハイブリッドなもの、気の遠くなるような永い年月の関わりの歴史が刻印されたものなのだ。自己と自己ならざるものは、恐らく、一つの明確な境界線を持つものではなく、存在するのは、そのカテゴリーだけなのではないのだろうか。「世界は何処までも繋がっていて途切れるところがない」(タカユキオバナ)。
 
 「意識」展の巡礼の道も「十牛図」の牛を求める道が自己を遡行する道であるように、意識の深みへ降りてゆく道である。そのプロセスは「自意識」はおろか「自己」の輪郭さえ不分明な場所を招き寄せてしまうかもしれない。自意識や自己が異界にあるというパラドックス。しかし、本当は少しもパラドックスではないだろう。私の原郷は異界にある。個我の輪郭を超えた外部にある。私たちは、ひたすら内部に向かおうとすれば外部に出、ひたすら外部に向かおうとすれば内部に入ってしまう関係を生きているのではないか。異界は私である。
 
 「沖縄学の父」伊波普猷はニーチェの言葉を自らの問いの支えとした。「汝の立つ所を深く掘れ、そこには泉あり」。それは私の確信でもある。TV番組でキュレーター(長谷川祐子さん)の発言に強く引きつけられたのも、こうした前史があったからだろう。自意識の岩盤に泉に通ずる回路をうがつこと。SPACE・の「意識」展の試みに私が見たものも、それであった。

 

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