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鏡 閑 評論集

木術界  二〇〇二

 いま、ここにあるという不思議さは、何よりも日々の生活の力強さに負けて、たとえちらっと思ったとしても、ある深さを持って考えられません。逃れられない性から解き放ち、わずかに眼を凝らし、耳を澄まし、じっくり考えることで、新たなる視野が広がっていきます。
 沈黙を守り続けているこの桜でさえ、夢を見ているに違いないと思うところから、新たなる思索の芽が宿ります。それは、かつてなかった宇宙を予感させるものとなるでしょう。
 今こそ、制約を捨て新たなる飛躍の時へ。それぞれは小さな道標に過ぎなくとも、光年単位で見れば、道は一つにかさなり、ある宇宙の開闢の種となりうるでしょう。
 どうぞ、木術界にてあなたの道を開いてください。

木術界実行委員長  鏡 閑


 木術界のこの桜は確かに成長を続け、瑞々しい凛とした様相でいる。それは意識あるものにとって歓喜であり勝利である。たとえ、遅速な歩みでもここから始まるという自負心は大きな支柱となり牽引力にもなっている。三年目を迎えた木術界に妙な不安や焦りは感じられない。桜との対話をきっかけに、自意識を解き、ついに出現し得なかったものに名をつけ、ここに出現させようとした。やがて、意識の水平線を見つめようとする熱望は、2つの神の問い掛けに試されることになる。すなわち、意識の根源と究極の謎である。ここに集うものはそれに答えようとする確かな意志と気迫を持ち、夢見るよう運命付けられている人々のような気がしてならない。
 意識の根源に向かう探究は自己を観照することと等価である。これは根源を探究するものにとって内在化した明白な公理である。それゆえ、自身の存在の原因は根源の意味といえよう。自身の中に生命46億年の痕跡が確かに存在し、内なる秘められた光からは宇宙誕生150億年のビックバンの余韻さえも内在化しているはずである。しかし、現実には個性で完結統一された視点ではそれを読み解くことができない。それは意識が日常性の狭い範囲にとどまっているからである。根源を知り得ようとするならば、個性を滅却するくらいの経験をしなければ得るはずもないだろう。それができなければ、先に覚醒した人々と触れ合うことである。木術界はその入り口となりうる。それはある意味で信仰と言っていい。木術界の作品を凝視することは、日常では開かれることのない内なる眼を作家を通して間接体験するようなものである。それは普段の生活で何気なくやっていることを意識してきちんと、正しく、見たり、聞いたり、読んだり、覗いたりすることである。
 例えば、ある事物を見たとき、それが前後左右、上からも下からも見て変わらないものであったならば、それは真理と呼べるものに近い。といって、観察するたびに印象が色褪せてしまうことにあきらめたり嘆いてはいけない。たとえ、それが自意識の範囲のものしか映らないものであっても、何かに気づいたり、風景が変わる一瞬は意識の広がりを感じられる至福の瞬間であるから・・・。岩沢淳、佐竹BUZZ宏好の作品はそれを体験することができるものである。
 岩沢淳は、桜歩道の裏側に隠すように細長い鏡を2つに枝分かれをしている桜に重ねて置いた。そうしたのは2年間、木術界に参加をして出した結論と思える。それは意識の選別をすることではなく体験を重要視しているためであろう。細長い鏡を覗くと近視的な風景からでは鏡を覗く自身の眼差ししか見えない。その状況は「自己とは何か」という問いかけである。視点を桜の方へ外せばそれは「あなたとは何か」という問いかけにかわる。それゆえ、自意識の外に出るような行動を起こさなければならない。ここでは自身の視野から離れ桜全体が見える視野まで下がることである。やがて、自身の鏡の写り込みの風景は一変する時が訪れる。鏡を中心に桜が内部を開いているようにも切り裂かれているようにも見えてくる。この瞬間、自身の眼から抜け出しその場を包み込む宇宙的な眼となったような感覚に陥る。岩沢は、意識の広がりは教義ではなく、行動しながら自身の眼を開かせていく道を示しているかのようである。
 佐竹BUZZ宏好は、一つ一つのものを象徴的に使っているために、それを読み解くには、自身の過去の記憶に想起する中で探らなければならない。毛糸は、やさしい同情の絆の象徴であり、鉄の輪は人の可視に限定された意識範囲の制約を暗示している。しかし、実は、その制約されている自意識の思索にこそ未出現の種が仕込まれている。佐竹はその種を鉄の輪の小さい篭のなかに忍ばせていたのである。意識を制約から解き放つ種は真に意識の中にあり、いつでもどこにでもあり萌芽しうることを予感させる。それに気づき成長させるか否かはその人の意志決定に委ねられるものだろう。
 茂木高夫は、この危機的な状況をユーモアあふれる啓示的な物語を読ませることで意識を広げさせようと試みている。しかし、本当のところ、作家の意図はその行間にはない。その物語を読み終えた後、もう一度作品に戻ってこなければ、本当の意識を理解することはできない。ドクホンチールがどのようなものか手にとらなければ、その底に仕込まれている大地の目を見ることはできないのである。茂木にとって意識を広げていくことは、視覚と概念を織り交ぜた新たな言葉、つまり、第六感言語を使って多種多様な意識とチャネリングし共有していくことと考えているらしい。
 水は生命の根源のまぎれもない事実である。この事実に基づき、和田文江は、意識自体がその神秘さゆえ、直接眼にすることができないことを予感しながら水に心配りをして黒い大きな水盤を置いた。その水盤には自然に散ったと思われる葉が浮び静かに揺れている。桜の写り込みを鏡を使わず水盤を使ったのは、意識は無機質な器の中にはなく、生命の中を満たしている水を介して存在していると考えている為であろう。それは水を介して意識の共有化の可能性を予感させると同時に、水が意識の根源を知る上でひとつの形の存在も暗示しているのである。
 人の感情は根源を体現するひとつの輝きであって根源へ向かうよき道標となりうるであろう。それは完成された作品の中に垣間見ることができるが、もしその創作過程に立ち合えれば、部分的ではなく流れるような輝きを作家と共に共有できるはずである。木術界が公開制作に配慮しているのはここにある。清水美智子、栃木美保は、自然に発してくる祈り、願い、癒しの感情を観るものに共有をさせるような展示をした。
 清水美智子は小さな鈴を願い込めて吊すことを来場者に託した。託された鈴は、桜が風に震えることで一斉に鳴りだす。その鈴は震えることで自分の位置を明かしている。 それは桜と自意識の関係の中の所在であろう。そして鈴に託して吊すことは、何か未出現に対して祈る心である。安らかなでありますようにと、それが不特定多数の意識の集まりの願いは、風に震えるたびに意識の共有化へと導くひとつの音になっていくに違いない。
 栃木美保は桜に向かって吹く風を、彼女が呼ぶ精風によって落とされた枝葉を集めて桜を讃えた。永遠に繰り返される事象の瞬間をその精風によってある形を持つことになる。この風は羽を象徴的に取り扱っているに違いない。それは紛れもなく命の風であろう。風は成長する桜にとって試練である。その試練によって削ぎ落とされた枝葉は成長の証しでもある。この宇宙を創造した神の一撃がもしあるとしたならば、この精風に近いものと思えてならない。
 神話の中では宇宙の根源的なイメージをあらわすのに卵、獣、植物、言葉、幾何学模様などを用いているものが多い。それらはそもそも我々の内にある経験的なイメージの産物なのであろう。貝野澤は人の感情を般化した神話の領域に踏み入れて作品を展示した。前回の自意識の創出により生み出した大陸をもっと大きな括りで考えたのである。 世界桜とは北欧神話に出てくる宇宙樹に重ねあわせて創作したと思われる。宇宙樹は永遠性をもつ世界の中心にある樹木である。根は神々、巨人、死者の3つの国を統括し生と死を司る霊力を持つ動物を象徴とするもの枝、幹に住まわせている。貝野澤は自意識の中心が何か他の大きなものによって突き動かされているような印象を世界桜に託したのである。
 意識を探すことを現実に気迫をもって行動していくのが大木道雄である。大木は意識の逆転写をするために定められてきた行者のように巡礼している。彼は、日本はもとより、世界まで招かれて旅をし、彼が出会った木々を、人々と共に蝋で写し取ることで鎮魂をすることで意識の根源に近づこうとしているかのようである。今回、彼は先程新潟で千年を越える巨木の表皮を写し取ってきたものを、木術界の桜に重ねあわせた。それは意識の会話とも受け取れる印象を思わせる。蝋燭の拓本は自然界にない違和感がある。それゆえ、それぞれの桜の自意識をより強調させ、魂の叫び、意識の根源を浮かび上がらせる。それを諭すようにレクイエムを歌いながら鎮魂している大木は意識の行者なのである。
 意識が自身を観てみたいと開闢した世界ならば、その意識はあくまでも自身の形を探し続けるであろうか。形を求めるということは、出現に対して未出現を創出する永遠に繰り返される徒労の世界である。これは出現の方に着目しているがために起こる執着である。これに対して春山清は、未出現のうち一つの生命体、アウザリ・ザブラン・ウィウィと出会い、それを介して何かを出現させるひとつの仮説を提示したのでないか。意識が一元的な観念に陥らないように造作は極力避けて、一つの名前だけを証したと思われる。この意味のない名前は、その韻の印象としてある波の擬音であったり鳴き声のようであったり、意識の扉を開く呪文ように次々と連想されていく。実は、この言葉は桜を見上げて想起して閉じる自意識の円環のように自在な意識生命体でないだろうか。それらは内なる世界に仕込まれている意識の多様な扉を開く鍵である。春山はこの言葉を非在の生命体と位置付けをしたことが重要である。意識はある生命体の中で意味のある世界であって、それを介して桜の意識(声)を聴こうとする行為は意識を持つ生命体同志つながり合っていることを示している。意識は意識を映し出す鏡なのである。春山が出現させたアウザリ・ザブラン・ウィウィは対象を凝視した時にその対象は持つ内なる未出現さえ余すところなく鏡のようにその意識をそのまま自在に映し出す生命体である。それが究極を知り得たものならば、究極を、根源ならば根源の形を見せてくれるに違いない。それは対象であるあなた自身が持つべき意識である。
 タカユキオバナは、概念的ではなく実際に自在意識の一通過点を愛らしく見せた。タカユキオバナは、木術界当初から種らしきものを吊すことで意識の広がりを桜と人に託してきた。種は一つの未出現宇宙を包み込んでいる象徴である。しかも、それらは確実に生命体であることを忘れてはいない。今回は桜に生きた魚を吊して種が生命そのものの中に広がっていることを分かりやすく見せた。魚という異なる種類の生命を吊すことでその変容の可能性も示している。進化の過程で何か強く思う想念は必ずシステムを構築していく。タカユキオバナは、環境によって淘汰されていく形ではなく、意識の力によって変容していこう意志を示していると思える。
 この木術界の桜や草木は光を使って光合成をして物質を生成している。それらは進化の過程で自然淘汰されたシステムである。しかし、その意識の志向形態を考えれば、何も犠牲にすることなく自身を維持しようとするものである。その根幹をなす葉に注目し江尻潔は、桜の葉に文字や絵、記号、願い、祈りを直接、桜の葉に書き記した。江尻にとって文字は意識そのものを表す形と考え、書き記した形は意味を持つものではなく念に近い形のないものらしい。その行為は、意識を桜に植えているように見えてくる。それは紛れもなく未だ存在しなかったもの、ついに出現しえなかったものを出現させる儀式のようである。それは我々の貧しい意識に折り合いをつけさせようとするかのようでもある。物質とは何か。意識とは何か。水とは、桜とは、自分とは、観念の中でめぐる問い掛けは、天空を空回りするだけである。江尻は観念の世界で言葉遊びをしているのではなく、未出現の世界へ旅することをいざなっているのである。木術界が目指すものも実はそこにあるのではないか。自身を見つめることで意識を理解し会話をすることで意識の共有化へ導くことは未だ途中にしかすぎない。木術界は宇宙の開闢直前、物質の根幹に閉じこめられた神の意識に近づこうとしている。それは単に意識で水をつくることと言っていい。
 我々のこの未熟な概念の中で、何かを表現することは全て無意味な色褪せたものである。有限の生命の中では、確実に手にするものはあまりに少なすぎる。目的地があまりに遠いためにそれを探す旅は、徒労に終わることは眼に見えている。しかし、もし、この木術界を続けることで、いつしか物自体が自身の存在理由を知り得て、それによって宇宙が存在意味を失い、ビッククランチを呼び起こそうとも、確かにそれらを探した意識達がここから始まり苦悩し続けた後を木術界という余韻で次の宇宙で響かせているに違いないだろう。私は、そのはじまりにその証人として立ち会いこの木術界の桜を見上げている。

 

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