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SPACE-U

ーほかに紛れてー

 

ほか展

 

2007年7月28日(土)〜8月11日(土)
12:00〜22:00

 


※ 7月28日(土)18:00〜
  対談 『地図帖』について タカユキオバナ 貝野澤 章
  懇親会 参加費2000円

 

さまざまな自意識が介在していくことで世界はどのように変わってゆくのだろう。
連続展『地図帖』の第五話は、ここを訪れたあなたが、既に登場している四つの
意識と積極的にかかわることで生まれる「逸話」である。赤ペンを使い、内容を
自由に変えていく、そのことが「ほか」の世界を生み出していく原動力なのだ。
                             タカユキオバナ

 

『他』 アンダーラインは削除の意
『他』 みどり文字は挿入の意
    青文字は削除の復帰の意
『他』 アンダーラインは削除の意
『他』 みどり文字は挿入の意
    青文字は削除の復帰の意

干上がった沼の底、わずかな水溜りに、四匹の蛙が跳ねていた。一匹目は水気を求めて旅立つことに、二匹目は泥に潜り沼が再生するまで眠りにつく、三匹目は末期の水を飲みに来る獣にしがみついてどこかへ、四匹目は卵を水中ではなく身体の中の水で育てる工夫を。四匹の蛙がうつっていた。
 冒険に出た一匹の行方、地中に籠もる一匹の夢、乗り物にまかす一匹の運、それらが語られるのは遠い先。今聞けるのは、脳機能を拡張する道を歩んだ系の先頭にいる一者が語る出世話ぐらい。薬をのんだ

 陽の長い時期、氷原の民は白い領に走る大小無数の割れ目を利用し、陽の昇らない月日に備える以上の糧を得ていた。氷の王は、集まった蓄えを使い、出来する様々な事柄を処理し禍を鎮め福を謝す。氷の割れ月と張り月を告げ、氷の割れ具合や空模様を報らせ、励ましを与え幸運を祈る。活動の季節が閉じられ、皆が憂いを凍結し星々に想いを寄せる頃、光の吹雪が舞い踊りかれらを照らす、太古より続く白い領を祝うかのように。
 その年、割れ月は暦を裏切った。王国はゆっくりまどろんでいられず、融け出した状況への対応に追われる。早めに活動が始まればより大きい成果を手にできる、かもしれない。寒冷期間が縮まれば実入りも貯えも増える、かもしれない。王もそう考え、日差しの明るい間にこれまでないほど活発に動き、民もまた空前の働きをした。遅い張り月が来て仕事が少なくなると、今度は暗い間を遊びまわり捨てるほどの楽しみを味わった。
 凍てつく天を見上げることもなく、夢のような暖かさに満足しているうちに氷の山が崩れていった。次の年、まだ白い恵みが降り積む時分に、透きとおった重い水が落ちてきて雪と氷を洗った。白い野は渡りきれない割れ目で分断され、氷原の岸辺は削り取られ薄くなり消えていく。
 こうして王国は散りぢりに裂かれ、たくさんの孤立した氷塊になり、やがて一つまた一つと没していったそうだ。
 もちろん生きのびた者もいるにちがいない、たとえば囚われの身となって。た、それぞれ今はただ四匹の蛙が跳ねていた。

 広大な雨林の樹冠を縦横に繋いでいる回廊は、いつの頃からか《長い手》と呼ばれ、共和国の繁栄はその維持と伸張にかかっていた。往来の拡大なしには交換の増加なく、交換なしには共和国は持続できない。暑熱の森の豊かな恵みは降りそそぐ雨のよう、われらが貪り尽くせるわけもないと考え、あるいは次々に新しい果実を欲しがる。倒れる木々は昔からあった、それがどのくらい失われたかは気にもとめずに、つい昨日までは。
 花の見頃によって定められた暦が狂ってきていると感じ、咲き揃いの乱れや移ろいの早まりを思う、自分たちせわしなさのせいでそんなふうに見てしまうのかもと考えもする。往来を急ぐかれらには、痛みの激しい《長い手》の補修をせかされ加えて新設の負担も迫られ、疲れがとれず休まらない。
 その年、晴れ顔に輝く陽の出番が少なく、鈍い黒雲は不機嫌に膨らみ足踏みした。同時に咲くはずのない花が一斉にほころび、虫や鳥の様子がいつもと異なった。ものの腐りや不治の病いがあちこちで目立つようになり、吹き荒れる風雨にたくさんの《長い手》が落ちた。
 以来、中央へ運ばれていた収穫や交換物は著しく減少し、放棄された区域の群れがなんとか持ちこたえた場所へなだれ込む。或る集団は寸断された森の経済網の再建に背を向け、別の集団は自ら通路を切り離し自存自衛の孤立を選び、いたるところで中央の要求を拒む。強制が中央の生き残り法となり、協力しない者達を追放する、反抗する連中の木を焼く、そして抵抗勢力による強権への絶望的攻撃は森をも燃やしていく。
 悲しみか怒りかは知らず、天の熱い涙は乾かない。苦難を共にせず和を結ばず、天に感謝した昔を忘れ呪いの叫びを響かす国にしたのは誰か。
 逃げ場を無くした一家が、手長種族には地獄とされている葉の重なりの底へ下りていく。戻ってきた者がいない根の国へ。晦冥の下界を迷いながら生き抜くうちに、かれらは背伸びして歩くようになった、という。
13の月の遠い光の記憶

 押し寄せる砂を塞き止めている堰堤は日毎に嵩上げされる、砂の高波を防ぐ材料は幻の帝国の遺跡を砕いて用いる、見事な石組みがいつの時代に築かれたのかなど、オニには興味がない。かれらの祖先が建てた昔の都か、彼方から来た異貌の種族が造った城か、いずれにしろ元の姿を知る術はとっくに失われているのだから、どうでもいいのだが。
 遺跡に点在する深井戸は涸れたことがなく、汲み上げられた水は給水所へ配られ、第一の掟として毎日必ず同じ分だけの使用を、オニとオニの客とオニが飼う獣とオニが刈り取る作物、それに第二の掟である緑の保全、のみに限り許される。旱のクニの水場を通るヤカラは、生命の水と引き換えにオニが必要とする資材や情報を提供する。オニどもも必要以上にものを溜め込み、それらもまた取引の材料にした。旱が激しいほど来訪者に売りつける水の値はつり上がり、集まった各地の産物でオニたちは財を成す。砂の襲来さえなければ、この富で新たな帝国の実現も可能だったろうに。バナナとオニみくの客とオニまやが飼う獣とオニいわしが刈り
 その年、砂の津波はついにすり鉢の縁を越え、低地の緑色を押し流した。オニのカシラは旱の祭主として、旱が目先の益を取り返しのつかない損で償わせると予感していたから、旱のカミを恨みはしなかったが、あっさりこれを捨てた。どうせ砂に飲み込まれてしまうのだから、周壁に石を積む労役はもうやめる、水の掟も破ってかまわない、獣は痩せる前に喰ってしまおう、カシラは盛大な宴を催し倉の宝物を手下に欲しいだけ取らせた。まや
 以後、立ち寄る旅人すら途絶え、文明の器は刻々と埋まっていく。オニどもの半分は緑の園をめざして砂の海を渡った、あとの半分は遺跡の範囲に生活圏を縮め、廃虚のすべての石を積み重ね内側を囲み砂の軍勢に防戦を挑む。不自由しない水が、跡形もなく土に返った帝国の最後を潤おす。木立ちや畑は隅々まで手入れされ、養われている獣も家族のように大切に扱われ、帝国の残骸で外の光景を遮られたここは楽園のよう、だが、ひきこもり守る砦に勝ち目はない。
 なにものも抗えない砂津波がやってくる、幻覚を見たオニが水位の下がった深井戸の底で水の動きを調べていた。そいつは無謀にもこの暗流に小舟を漕ぎ出し、闇の中へと消えていった、水は必ず光を探し当て地上へ抜ける、という夢を浮かべて。

 知られざる先住民の墳墓に刻まれた文様の解読を、自費出版で発表したパズル愛好者によると、そのホカと呼ばれる社会は、四つの役割を分担する家系により運営されていたらしい。
 学の専門家ではない著者は、四つの系譜は身分ではなく階層の上下も構成してはいないという仮説に立ち、それぞれの特色と関係を叙述しながらこの言語の意訳を試みている、それによれば‥‥‥‥
 産族・治家・文民・余人、四者の異なる字体が交互に絡んで模様のように見えるが、これは複合文章である、四重奏のような。四重奏のような
 そこが或る種の民主主義社会だったことはどうやら確からしい。人民の権利と軍事力の廃止が、四字体の融合部分に表わされている、まるで絵のように。
 立法院の議席は出自により四等分され、選挙では票数で上回っても各々の定数を超えた議席は得られない、と記されたところでは四者が入り乱れて自己の存在理由を歌っている。
 社会そのものである生産活動に携わり、農漁・商・工・全ての分野に於て経営層から労働者まで、豊富な人材を擁し、暮らしの必要を満たし現実を支えてきた。資源・道具・動力・技術・製品・市場そして資本、勤勉に競い合い労を惜しまず、利を図り業に励み休みなく経済を動かす。欲するものを追わず、望みの実現に挑まず、努力を怠る者に将来はない、と産族は緩急に乗せて流れを奏でる。
 いつの時代も統治や行政に身を捧げ、下級の役人にはじまり執政の最高責任者に及び、衆の暮らしに仕え社会の舵取りに務めてきた。福祉・教育・治安・環境の細部から大局に到り、全体に奉仕する組織へたえず人員を供給し、議会でも主導権を発揮することが多い。法秩序に従い対処し、公益を優先し、個別の利害にとらわれない、と治家は抑えるように低音を響かせる。
 日々の出来事から世界を動かす事件まで、時代の動静から今昔の世界観まで、世間一般に知らせ社会を可視化してきた。なによりも、自然・人文の知や学を考察し万象の理を探究する場へ、優れた才能を届け文明の向上に貢献する。何事も軽視せず、いたるところで生じる様々な問題を人々の眼前へ提起する。考を重ねず論を避ける者の側にはけっして与しない、と文民は高音域を受け持つ。
 自由の大きさが選択の幅を拡げる、自由の不安定さが対応の柔軟性を引き出す、自由の強さが想像の奥行きを深める、自由の逸脱性が行為の限界を破る、〜しきれない残余が境界を溢れる。きめられた位置に留まらない、組織が苦手で権威を重視しない。であればこそ、転換期の困難な状況に際しては、従来の枠組みに拘わらずそれまでの道を捨て、系譜を無視し変革の先駆けを社会へ送った。家に入らず民を称さず族に拠らず、多数に属さず衆を恃まない、と余人は三奏者の調べに異なる曲を。
 この制度は、他の界から亀甲の筏に乗りここへやってきた四人の男女の伝説に由来する。
 四人は一つ屋根の下で仲良く暮らし、二人の女が男女二人づつ子を産み十二人に増えた時、父祖は気付いた“このままでは子供たちが大きくなり次の世代を形成する際、一家の中で結ばれてしまい困ったことが起きる、離れた場所へもう一つ家を建て、家族を分けてそのうえで共に力を合わせよう”と。 こうして二家族の八人の子は成長し、やがて他家の相手とそれぞれ結ばれ、二代目に四組の家が誕生した。父祖たちは、四家のいずれかがこの小さな世界を一人占めしないよう、四つの役割を定め血筋に印した。老いた四人は四家に一人づつ引き取られ余生を送ったという。
 ところで、パズル愛好者はここに、国家・階級・文化・主義等の用語を発見できなかった。こちらに問題があったのか、それとも向こうに‥‥‥‥。これらの用語が不必要なくらい内容は、そのものでつらぬかれていた。

「これからは今までのようにはやっていけない、そう言い続けてどのくらい経ったか。いろいろ耳にしても、今を逃したらもう後はないとわかっていても、行動どころか決断も先へ延ばす。ようするに、耐えきれなくなる日を待つ、世界は大きな犠牲を払う、ただし自分の損害はどういうわけか軽め。自分より不運な連中を眺め、それにより脆弱化する自身には目をつむり‥‥‥‥
 私の職業は、明日に期待すること。現代文明の持続は可能、危機を機会に、これまでの進路の転換を図り、人々が生活の仕方を改め、新しい技術が間に合えば。こんな希望と展開をうたい、製品の企画開発に携わりながら、仕事が進むに従って先行きを暗く読んでしまう。
 私も当面はこのままなんとかの内の一人、不自然な豊かさを達成した世代、まずまず順調な一生を味わえた世代、転落に怯えているのはここへ含まれる者たちで、貧しさの水面に浸かりもがく大勢にとっては今が耐え難い。私たちの持っている図面はもう取替えがきかない、場当たりの修正や遅蒔きの変更を重ねるのがせいぜい。別の見通しでもあれば教えてほしい」酔いの回りが早い産族のエフは、旧友に職場では吐けなかった泣き言を。
「昔ながらの落ち込み開始か。前向きが売りの産族が、顔を上げられないほど胸の痛む行ないでもしてきたらしい。持てる者の辛さを愚痴で解消する、それとも一緒に落ち込んでほしい、できれば元気づけてほしい、もしかして後ろを向きこちらの反応を窺い仕事に役立つ着想でも拾うつもりかな、どうなの。
 利益と損失は数値で示される、評価は総合的に判断されるとはいっても目に見える結果が大事、利益なくして分配の増大も将来への投資もない、社会は利益を追う者に依存している、当面は。ついでに、飲み食いや遊びの費用は概ねエフに負担させてきた、三人とも。
 現在の滑りようがさらに加速すると想定して対策を練るのか、それとも傾斜を緩やかにして激痛を和らげる程度の方策しかないのか、そもそも滑りの止まる着地点とはどこを指してのことか、文明の後退か、荒廃か、崩壊か、終末か。あちこちで、転換・再構築・新生・飛躍の可能性が探られていると云うのだけれど。いずれにしろ良き未来を想像しようとしない者に良い世界が待っているわけもない、その辺りなにか良い知恵を貸してもらいたい」エフに目を遣りながら、治家のアールは無力へ導く暗い見方を懼れるふう。
「エフはどうやら悪い予感の流れに魅かれ、波乱を望んでいるらしい。今はまだ流れに落ちる不安より、それを眺める余裕が残っているので、捨ててもかまわないものがあるかのような。展望が持てない、余力のあるうちに突破を試みたい、どのみち災厄に襲われるのなら早めに、などと密かに妄想しているのでは。仕事に行き詰まった、結果に裏切られた、つまりは切実さが個人的事情に起因しているだけ。
 二人に限らないが、もっと現場の実情を語ってほしい。さて、不快な批判をする前に、アールがはぐらかすので私が代わりに構図を描いてみよう。
 社会全般に於て、ある程度の水準を確保するため、あるいは事態のさらなる悪化を防ぐための方策を二つ。一つは目的を定め目標を設けて強制により構造を更新する、改革体制によるか革命権力によるかは別にして。一つは現行の枠組みを調整しつつ不具合に対処していく、そのつどの選択が合成されて方向が決まる、全体的な構想なり転換なりを採用しない。
 権力が資本と結びつく度合によって、弱い部分を切離し強い部分を走らせようとする傾向が増減する。より速く走る者が勝つ競争状況では、遅れる者たちは次々に置き去られる。この設定では、小数の上層家族と大多数の下層人民に二極化し、抑圧と隷属あるいは反乱と争奪の果てに荒廃するか、いずれにしろ気候変動の心配はどこかへ吹き飛ぶ、洪水を待つまでもない。
 もちろん後から走って脇目もふらずに先頭を目指す者も居れば、親が用意した道さえ歩けずに倒れてしまう者もいる、それが世界を振動させ社会を揺さぶる、だから希望を捨てきれないしそれに幻惑されもする。後者が前者を追いかけていく勢いで、先進の分け前に与かる部分が膨らむ。一方、先進の地では勢いに欠けた者を減らす、つまり負担を軽くするために。
 伸び盛りの部分が縮み退く部分と交代していく以上に前へ出る、それにより全体が牽引され文明の限界が押し拡げられてきた、これまでは。物理的な限界は当然として、我が限界文明に替わる世界像が見つかるまでどうやって過ごすか、どの路線を選べば衝撃を和らげられるのか、持てる者がどこまで手放し、持ちたい者がどのくらい手にしていいのか、社会と環境・獲得する側と奪われる側の均衡は可能なのか。放っておけば遠からず瓦礫の中で次の文明を尋ねる破目になる、皆はどう考えているのだろう」止まらない舌も飲みたい口には負ける、文民のオーを黙らせようとジーが酒を勧める。
「三人とも偉いものだ、いずれ訪れる崩壊の図に現況の不都合な実情を紛らせて、駄目な内部から目を背け重荷は放り出し始末に困るものは外部へ散らかす、中央で特権を享受しているくせに。明日に迫る脅威を思案するのも、逃げ道の用意か抜け駆けの準備か、自身の。
 先食いしている者が指を食わえ眺めている者に、“こんな食べ方は止めよう、素材は不足するし排出物も処理しきれない”見せつけたあげく品切れ、もうあなたの番は回ってこない、私の所で締め切りになったというのではない、それに文明の器が壊れてしまえばいったい誰から食えなくなっていくのかを知ってほしい、とか言う。自分で重荷を積み上げておいて、軽く扱っていた他者へ押しつける、どころか他者の困難を自身の重荷と見做し振り捨てにかかる、私にも覚えがあるから。
 身近な毎日で手一杯の者になにが出来るというのだろう、聞かせてくれないか」あまり飲めない余人のジーは、視線を宙へ泳がせる。
 ジーは廃船を改造した方舟の試乗会に三人を招待した。予備校時代に友人となり進学後もなぜか誘い合わせて遊び、社会へ出てそれぞれに辿る方角が異なり距離は開いていったが結びつきが弱まることなく、会う機会は減っていったものの互いの社会的地位を気にしないですむ仲間、心の底まではともかく。実のところ、久しぶりの集まりに、四人は思い出話や雑談をするつもりはなかった。
 深刻な表情は、エフが企みを隠す擬態ともなる。
「最低だな、あちらの不幸に目を塞ぎこちらの不幸を差し出す。違う、あちらの幸を掠め獲ってこちらの不幸を押しつけた、かな。洪水を起したのはこちら、商品・欲望・情報・イメージ、水位も速度も落とせない。流され沈んだのはあちら、便利も快適も大量も贅沢にも無縁だった世界。いまさら水が退いても元には戻らない、当分は溺れながら泳ぐほかない、足の立つ底が見つかるまで。
「本当に見つかると思っているの」
 ところでアールは、水際の線引きをしている機関に勤めているのだから、どこを沈むにまかせどこに囲いを築くかは知っているはず、高台の富強は低地をどれくらい確保するかで決まる、でも高みを削ってまで低地を埋める気はないようだ。歴史ではこういう時、低地をさらに低く掘り下げ、浚ったそれを土手に積む、どうなったかは言うまでもない。
 オーが以前から書き散らしている駄文は、何かの情報に基づいているのかそれともただの妄想か。昨日まで続いた生活が社会全般に渡って脅かされる事態は何によって招かれるのか、どのような異変が突発しどのくらいの打撃を各自に及ぼすのか。破局の光景を描写し切迫する危機を訴える読み物は多い、過敏な反応はやがて過剰による慣れから鈍くなりさらなる刺激を求められる、冷静な予測は情動的な予想へ、終いには娯楽に供する空想話として消費され。
 ジーときたらこの六つも舳先がある奇怪な艦艇を浮かべ、アールの同類達が主導する世界を離脱するつもり、滅びへ向かう文明からの逃走、子供の時に見た夢の乗り物を手に入れ、内向きの戯れに没入、どちらにしろ余人らしい。彼が笑わせてくれるので、少なくとも三人は救われる、たとえ数分間といえども。それはそれとして、借していたカネは今日こそ返してくれるのだろうね、まあカネがあるわけもないから、この玩具は貰ったも同然。ジーが約束を無視し、どこかで蝶が舞い、世界の経済は破綻へ、とかいう効果も。明日の天気は下り坂、外れてほしい」
 カネの話で酔い心地を損ねたふりをしながら、アールは宙を睨み苦笑いする。
「船舶として機能させるなら許可や登録が必要、動力の無いボートではないようだし。そもそも彼は操縦資格を持っていない、ここを出るどころかそれ以前に違法行為だらけ、こいつは没収されジーは監獄行き。たとえ手続きを取ってもこいつが船と承認されるかどうか怪しい。芸術的物体として展示するか、遊園地のアトラクションにでも売り込むか、マスコミに変わりものネタで取材してもらうか、それも無理そう。聞いたところによれば相当なカネと人手がかかっているはずだから、まさかこれで放置して後は考えていない、そんなわけはない、とすれば。
 何でも文明の落日に結びつけるオーなら、これも崩壊の兆候と捉え、時代の流れ抗うあがき、あるいは劣化しつつある社会が生む狂気の一例、とか記すのだろうけれど。警告に見せかけて不安を煽る、鈍感な政治と怠慢な行政が責められるのは当然、治家と産族の一部が現体制の脱却を目指しているのも周知のとおり、しかしその裏側で謀略が画策されているなどとまで書くのは如何なものか。おっと、嫌な言い回しを、つい。政治の中枢から排除されているように感じている余人や文民にすれば、出自による議席定数の改正は人・民のさらなる政治的影響力の縮小をもたらし、特権層の既得権を固めるばかり、とオーは述べるが、出自に由来する制度は廃止するべきだとするいつもの主張と矛盾してはいないか。出自の制を無くせば、場合によっては議員の多数を文民が占める選挙も有りうる、治家出身の勢力が減少し、旧来の構造を組み換え新しい手法で諸問題に対応する、そうは考えられないだろうか。現行の仕組みはそのままで党派の交替に望みを託してきたが、日々の暮らしが最優先の課題である以上、生活の向上を掲げ明るい社会を訴える構図は同じ、色の着け具合でどちらかの配分に差がついて、次もこの差を巡ってのやりとりに過ぎていく、手法がどうの仕上げがこうの、目先の関心事に触れる深みを欠く絵柄の前で。画布が破れかけているというのに。私ならまず、破れを修復する、そして下地を塗り直す、絵は様式を改め未来を視野に収める。オーは自覚していないかもしれないが、絵の描き変えではなく支持体を引き裂く側に手を藉している。人々の合意によって構成されている文明を破壊するのは不信であって、天変地異ではない。厳しい批判は結構、できれば非難ではなく建設的な考察を。
 文民の不満分子は、官・業の、治・産の複合による独占支配を指摘するが、どの系譜の出身かに関わらず優れた人材は政・官・財の枢要な役職に就いている事実を故意に無視してかかる。たとえばエフの母は余人、父方の祖父は文民、父親が職人あがりの技術者だが、彼の魅力も才能も出自の複雑さに関係していると過大評価されるほど。なにしろ系譜が単調であることは可能性や選択肢を狭め、ものの見方まで先祖より引き継ぎかねないから、私のように。
 エフの視界は広いのだが、見え方に偏りがある。たとえば、立法院の在り方から治家が仕切る諸規制まで、所定の手続きによって改革する余裕はもう失われた、といって付託された力を行使できる政治が、非常事態の制を敷き至急の課題に取り組んでも、崩壊へ向かって減速するよりは加速させる結果を招くのが関の山、と判断したり。食料も燃料も資材も製品も見た目には溢れているようで実は限界が近い、恐るべき不足の忍び寄る足音を耳にする位置に居れば暗い画像しか目に映らないのかも。産族の下層が余人へ移っていく、エフは相方に去られ、二人の子は、上が事故で亡くなり下が行方不明。減る生産層の行き場が無い、矢印は明らかに下を指しているのに、何かを変えれば再び上へ登れるかのような幻想がまだ消えず、それに根拠の無い期待をかけて今夜も寝入る、明日はなんとかなるし明後日は誰かがどうにかしてくれるだろう、そのうちなんとか。
 一夜にして堰が切れることもある、しかし手の施しようのない奔流がなにもかも押し流してしまう神話風の絵図もまた幻想。社会を維持する合意さえあれば、犠牲を受け入れ非情にも耐え痛苦にも慣れることは歴史が示している。引き返しようはないけれど、古い絵を見つめて文明の再建を祈り惨禍をくぐり抜けいずれ夢を抱く、実現できそうになくとも。
 エフがいくら懐かしい絶望を奏でても、騙されない。いつもより底が浅い、余所に気を取られている、ろくでもない何かに」
 代々治家の親族に育まれた気風を身に付けているアールが、珍しく感情に走り論脈を乱したので、オーは思わず酒をこぼしてしまった。
「あっ、重大な秘密を打ち明けてくれる前触れ、かな。早く話して、こちらで掴んだ情報と照し合わせてみたい。それとも逆にこちらが握っている内容を知るための誘い、のほうか。エフもアールもジーが用意した妖しい乗り物にふさわしい怪しげな代物を持参してきたようだ、そうこなくては。
 私の手土産がどうやら一番ささやかみたいだから、気楽に紐を解かせてもらう。グルグル巻きにされた中身が捏造品、だとしても悪しからず。
 さて、ここに極秘印が押された機密メモのコピーが一枚、或る筋から送られてきた。本物かどうか調べられる限りの手を尽くして、確証は得られなかったが確信は持てた。しかし、公表の仕方が難しい、数ある陰謀説や噂話と同じ扱いをされるか、悪辣なでっちあげと断定されて潰されるか、それなりに耳を傾けてくれていた人たちから見放され、信用されないだけでなく害悪を撒き散らす犯罪人にまで落とされてしまうことすら有り得る。誰にも相手にされなくなることは、私のような者には耐え難い、余人はいざ知らず。
 いたるところで不祥事や不都合が表面化する、隠蔽されたり未処理のまま不明とされたものがある、故意か惰性か怠慢か、組織や機能に欠陥なり不備なりがある、それやこれやは文明の持病であっていつの社会にも存在することぐらい皆が解っている。だから、選出した代表を介し、言論を通し、あるいは直接行動を起し、たえず修正と改善を働きかけ、浮かび上がる不具合を時代に合わせて手当てしていく、応急措置に予防策に。通常は、問題が発生し、対案が提起され、説明と対話により理解を得て、支持を要請する、という経緯で事を運ぶ。けれど、問題が全身に及ぶ重症の場合、今までのやりかたでは処方できない場合、どうするのか。
 メモの出所はアールの勤務する特命委員会、そこの作業部会で策定している計画の覚え書き。しかも彼の役目は今夜のこの場と無関係ではない。私を黙らせるための値は幾らになのか、メモはアールとエフのどちらかが買い取る、私を説得して味方に引き入れる、握った弱みとの取引きでジーに私を黙らせる、どちら。
 ジーが学生運動をしていた頃の過激な一派が最近になって再組織され、現体制に一撃を加える動きが実行段階に入ったことを政府も公安も察知しているのに、なぜかこれを事前に阻止しようとしない。いつもの事なかれ方針か、弾圧と非難されるのを危惧してのことか、世論の動向を見定め慎重に対応する、そうではないだろう、アール殿。
 あの連中とジーはとっくに何の関係もない、ほんとうかな。この船はガラクタに見せかけたハイテク装備の特殊艇、連中が建造費を負担、エフからの借金もカモフラージュ、ちょっと飛躍しすぎかもしれないが、子供のイタズラにしては‥‥‥‥。
 仮に、自分たちにとり望ましい方向への誘導を画策している勢力が、新過激派の不穏な動向を利用し、緊迫した情勢の裂け目に恐怖を仕掛け、その臨界を弾みに主導権を奪取するとしたら。治家の一部だけで練られた策略ではない、むしろ産族の計算・余人の発想に近い、系譜を横断して繋がる結社の存在をかねてから疑っていたのだが‥‥‥‥。
 エフの二番目の子は家出して二年以上経つ、時折カネの無心で連絡をよこすだけという。その子が学生の時、私に一度会いに来たことがあり、文明を守る環境についての考察を活字にしたいと意気込んでいた、“自然の多様性を損なう文明が衰亡に向かうのは当然、自然の堤防を切り下げておいて津波に怯える、自然を優先しそれに仕えることこそ我らの使命”そんなふうな話だったと記憶している、若いからな。“快楽を追求する恥知らずな高台の一族一家が自然保護を指図しながら、実際は踏みつけられている低地の住人に自然を削り取らせ、その恵みを高台へ掻き集める”そうも言っていた。親を責め自分にも刃を突きつけるのは、青年期にありがちな心理。高台への集中は文明の業、そこに集積する知や想から目を逸らさず、社会へ斬りかかる手段を間違えないでほしい、目的は君も私も一緒だ、と答えたように思う。
 目を背けたくなるようなエフの描写には、未来の壊れた社会ではなく現在の崩れた家庭が投影されている。破綻した私生活の虚ろを特別な行為で埋めようとする例は少なくない、内側の苦痛を外側へ放ち自身の失敗を他者へ転嫁する、つまりはアールの同類。互いに疑いつつ協力関係にある、二人は探りを入れながら噛み合う。ジーにはエフの資金提供を上回る金額が金融機関からの貸し付けられている、いったい保証人は誰なのか。
 メモでは、“文明の持続可能な水準を想定し、どの要素が重要でなにが決定的かを調査し、過去の事例と重ね合わせ現在の図面に記入、これにより選別の順位と範囲を測定する。具体的には、過激な連中の活動を刺激して混乱の雪崩を起す、それを阻止できない現行の仕組みに換えて強力な過渡期体制を構築する‥‥‥‥、続きは雪崩を待って”とある。
 朽ちかけた枠組みを腐った部材で補強するあさはかさ、冗談としか考えられない、それが恐ろしい、歴史は愚行を排除してこなかったから」
「お金になるようなメモではありませんね」
 オーは自分が揺れているのは酒のせいではない、と気付きジーを睨む。三人がまくしたてる話に酔い、出航を言いそびれた。これは池のボート漕ぎに似たようなもの、そういう顔つきをしてジーが呟く。
「自動操縦で数時間の処女航海。こいつで約束の地へ行けるわけもないが、うねりを増す世界の荒波に飲まれたくない。文明の波打ち際に暮らす者としては、予期される嵐をなんとか耐え忍ぶ工夫が要る、私はこれ。岸から離れた安全な区域でいろいろと悩むまともな三人組にはお笑いぐさだろうけれど。もっともオーの陰謀説に比べれば、私の工作など論外。
 オーが本当に憂慮しているのは、水・土地・自然の産物に頼っている産族や不安定で順応性の低い余人が環境の変動に伴って移動しはじめる、多くが都市へ流れて吹き溜り、荒廃の割れ窓が数えきれなくなる、重荷に足を引っ張られての犯罪・暴動、当事者の制御が利かなくなった果てに内乱。三人ともそいつが心配、底辺からゆっくり沈むなり干からびるなりは、いくらでも心を痛めていられるが、中央の炎上は自身の破滅に等しい。
 好きにしたい人たちを養う余裕が文明に残っていないと言うなら、誰が文明を豊かにしたかを教えてあげてもいい。この劇を演じるのも味わうのも前列に並んだ者の順。今まで先を争わずに這ってきた私の番は、おそらく終りのほう。ならば没落の悲劇を最後まで眺められるかもしれない。長い間、群れるのを好まないとか位置づけがしにくいとか、何もしないが何でも出来るなどと、いい加減に指摘されてきたが、特定の志向が無く広域に分散しているので、そちら側のように思い煩うことがない。余人のひねくれ者は、文明に期限が迫るのを悲観していない、難民になり盗賊となり革命家にもなれよう。
「そんな単純な話ではなかろうが……」
 それはそうと、エフが半日前に連絡をくれ、あれはアールとオーにはここで発表するからそれまで黙っていてほしいと‥‥‥‥、もう構わないだろ、話しても。
 脳科学分野に関係した薬品を製造する会社の『脳』部門に於て、残虐性や凶暴性、猟奇的志向等の社会に反する異常性格を治療する目的でエフが研究していた物質は、エフに側面から世界を救えるかもしれないという夢を見させた。会社は、犯罪の予防にいくらかでも寄与し売り上げや企業イメージを回復させるのが目標、責任の取れない夢想は頭から追い払い、決められた範囲から逸脱する研究は許さない。つまりエフは解雇された、会社の重役だったのに。
 感受性を鋭くし、共感を増幅する、敵意を抑え、協調性を高める、副作用は、涙脆くなる、お人好しになる、くらい。そういう効果をもたらす物質の抽出に成功し、動物実験ではまずまずの結果、以前は獰猛だったケモノと、自宅で仲良く同居しているそうだ。これがなにを意味するか、アールもオーも私より先に知っているらしい、やはり。
 アールの目つきがいつもより柔らかい、エフの愛他剤を利用すれば社会の荒廃を食い止められる、まずどこのどいつに飲んでもらおうかと考え‥‥‥‥、ああ、エフが船の完成祝いにくれた極上の酒、今、四人で空けたあれに入れてあった」ジーはどういうわけか怒る気になれない。家庭を顧みず仕事に心血を注いできた者にとって失職はどれほどの打撃か、おかしくなっても不思議ではない。
 エフが顔を歪める。
「悪かった、謝らなくては。四人の顔が歪んでいる 蛙のように
 最初にこの件をアールへ相談した折、特命委員会の反対派や文民の反抗的分子、余人のワガママにも効き目があればよいのだが、とアールが思わず本音を漏らしたような。オーが気分を害するのは判っていたけれど、これの欠点をあげつらうのにはオーが必要、私は適していない。アールの立場やオーの視点から見直し認識を深めなければと。ジーには余計なことは言わないほうが、と思って。
 自身で何度も試してみた結果は、直後は効力が小さくゆっくり、やがて一時間くらいで眠くなる、夢が鮮明になり醒めても記憶が薄れない、その朝から数日に渡りあらゆる現象がこちらに働きかけてくる、感覚が鋭敏になり周囲が無視できなくなる、対象へ感情が寄せられ同調する、相手に好意を覚え寛容になり態度も素直になる、聞いたり言ったりに感動が高まり猜疑心や嫉妬が消える、ジーにいくらカネを貸しても気分が悪くならない、気弱になったり言葉を失ったりする、泣き笑いが止まらず支離滅裂な気分に襲われる、ただし、元へ戻ると心身ともに疲労感が大きい。発現の個人差はまだ何とも、私以外の実験は今回が初めてなので。
 船はゆくゆく通り矢のはなを」エフは歌を口ずさむ。
「困る、明日から三日の休暇だが、家族で旅行の予定。普段の親らしさが無くなって‥‥‥‥、つれあいに告白をしたり厳格な家風を嫌悪する子供たちに同情したり、どうしよう。
 打ち明けるが、来週にもあなたたち三人を委員会の保安部が聴取する予定、あくまで参考人であって取調べではない、非拘束の保障はなんとも‥‥‥‥             
 オーのガセネタとは違い、委員会の調査では、“人民の僕であり公益を負託され運営してきた治家の権限を見直す。立法院の構成から治家の系譜を排除し、産・文・余の意見を直接に行政へ反映させる”という反治家組織の存在が確認された。《底流》と称するそいつらは、“諸機構の多数を占める治家の出身者が、専門知の有利に依拠し、思い切った改革を妨げている。社会の防壁が臆病で鈍重なのも、人民のための慎重さではなく、自分たちの現在を保つため。これからは、治家の権力が立法院で足場を固められないように制度を改革する、いかなる手段をとろうとも”行動を起こす覚悟。委員会はこの愚劣な観念を砕く、安心なくして信頼なし、奇策は弄さない。
 ジーやエフの夢遊の産物、行方を晦ます程度がせいぜいとしか思えないこの変造船も、《底流》に無関係とは言い切れない。私は昨日より、浮遊するこいつの監視を要請してある、罠にかけたようで申し訳ないが。
 情緒の浮音が流されないよう論理の錨を下ろす。エフの発見は、その意科理を切り離し、社会は風まかせの漂流に。暴風を前に非情な決断も果敢な行動もとれなくなる。4人はそれぞれ同じ紙片を持ち、ばらばらに うろつきながら かってな順で文を読みあげはじめる

 私は家族も職業も社会も大事にしている、伝統も理想も守っていきたい、あなたたちは特に。私だって、古い治家の不遜な気風が、上方の権益から下方の保身へと官庁に吹き渡るのを見たくない、制度を司る手腕に優れた役人が、謙虚さを忘れて影響力を拡げるのは反対、思いはあなたたちと一緒だ。ああ、置かれている立場よりここの空気に左右されてしまって。私もどこかへ行きたくなった、困った、これの対抗剤は用意していないのか」アールは今にも泣き出しそう。
「攻撃的な批評は書けなくなる。対決の緊張感は奪われる。嫌味や皮肉も言えなくなる。非道や不正への憤怒、反発や反抗の激情はどうなるのか、よくもそんなものを酒に混入して‥‥‥‥
 冷淡に薄情に突き放しに意地っ張り、厭われる性向のいろいろと良くない影響が社会にあるにしろ、それが悪い結果を招くとは限らない。非情な意志や不動の信念が、冷徹さや疑ぐり深さがなくて、文明が成り立つわけがない。その物質で社会の図体を絞り体質が改善され、文明は壊滅を免れるという思い込みの筋書き、あるいは、自滅の可能性も。もしかしてそちらがエフの本音か‥‥‥‥、地獄への道は善意で敷詰められている、と云われているし。
 私は恋人との喧嘩が絶えない、双方が言い分を頑なに貫く、誤解と曲解をぶつけあう、なのに別れられない。時には相手を傷つけかねないぐらい言い争いをする、興奮し外へ出て暫く帰らないことも珍しくない、それでも相談を持ちかけあい、論議を吹きかけあって、共に依存する関係に。病的であろうとも、この苦しみと楽しさが絡み合って、絆が結ばれたような気がする。長く深い苦楽によって培われ磨かれた精神に宿ってこその愛他心、上辺の優しさや安易な共感が、厭らしいとまでは言わないが。
 私は恥ずかしいことをしている、どうか赦してほしい。三人に無断で、今夜の出来事を私の関係するいくつかのメディアへ現在も送っている、腕時計に偽装したこの情報端末で。私たちが話したことは、明日は一部の文人が取りあげる話題にすぎなくても明後日にはどこまで及ぶか、無視から大騒ぎまでどちらへ転ぶのか、共鳴してもらえるか叩かれるか、後はメディアの実況を見聞きしている皆さん次第。
 エフもアールもジーもこれで人生が変わるかも。世界だって‥‥‥‥」オーは涙を浮かべ、三人の顔へ向かって腕を差し出す。
「このトンデモ船に値がつくかもしれない、おかげさまで。
 どちらにしろ、それぞれに結構な贈り物を準備していたわけだ。涙が出るほど嬉しい、やはり友人は有り難い。ヤバイ薬・オッカナイ罠・イカレタ話のたれ流し、全ては世のため、のようだ、そうとは知らなかったが。
 私は、三人のような期待も使命も責任も持たず、努力は小さく貢献は少なく負担は軽く、先を急ぎ優位を競う気力に欠け、挫けやすく諦めも早い。そんな奴は消えたほうがと彼岸に想いを馳せ、波打ち際からあの世へ身を投げかけたのだが、底流に拾われここまで運ばれた、それもこの文明の高みから溢れる余力のおかげ。生存の水準をはるかに上回る余剰があってこそ、私の勝手も見逃してもらえた。怠け者が思わぬ出会いに助けられ、倒れもせずなんとか暮らさせてもらえたことに、感謝しなくては。文明の恩恵を浴している一員として、あれ以来、私は世界を楽しむことにした、誰かを楽しませることができればさらに喜ばしいのだが。
 ヘンな薬物のせいか、どうも調子が狂う。
 ゴメン、実はこの船には自動操縦どころか推進装置すら無い、結社の工作船によってある場所へ曳航されているはずだが、でも見張られ追跡されでは、既に切り離されているに決まっている。昔、命を救ってくれた人から、あなたたち三人を監禁するよう指示されていたが、今はきっとどこかの洋上を漂っているのだから四人とも脱出できない。闇の甲板へ出ても、この雨の中では視界がきかない、夜明けを待つしかない、ごめんなさい。
 もし、こいつが本物の船だったなら、自由号にしようか開放丸がいいか、もっと他の名を付けたほうが‥‥‥‥」ジーは頭を垂れた。
 四人はまもなく朦朧として床に崩れた。と四人が同時に読み上げた。

 やってきた『すばらしい新世界』の輝く水面に、幸せなエフの家庭がキラキラ浮かんでる。亡くなった子はその頃の、家出した子は有望な若者に、別れたはずの相方は恋人時代の容姿、自分の年格好は気にもならずに。私のあの物質が、他者の気持ちや考えに寄り添い理解に努める、全てを分かち合い何事も見過ごしにはできない、そういう脳機能を拡張した。結果として、利己心や自意識の増殖が抑えられ、社会は調和し、文明は進歩し、私の夢が叶った。疑問が湧くこともなく、小さい子の手を握り「今度はぜったい離さない、君を死なせはしない、私が代りになっても」と私は涙声を出す、恋人が若者と一緒にニコニコ笑い「大丈夫、ここは安全な遊園地、みんな友達、悪いことは起こらない、あなたが創った理想郷」と唱和する。二人の表情は親子というより恋仲、私と小さい子を無視して鬼ごっこを始める。私は恋人が青年に捕まらないよう二人を追いかける、かけがえのない子の手をいつの間にか離して‥‥‥‥とジーが続けたオーも続けたアールも続けた。
 久しぶりに我が家へ戻ると、岬の見晴らし台に建つそこは余人の暴徒に占拠されていた。行方不明だった大きな子が、屠畜人や調理人を率い暴徒の指導者になって現れ、泣きながら私のウイルスを非難する「あんたの行為を責める言葉が見つからない。傲慢にも文明の潮流を変えようと、愚かにも世界の様相を革められると、なんという妄想。あんたが憎かった、死なせた小さい子のほうばかり向いて、生きている大きい子を無視した。仕事を理由にたまにしか家へ帰らず、家族の傷口をカネで手当てしようとした、そんな身勝手な奴がよくもまあ」と哀れな私に。多幸ウイルスの蔓延で、肉も魚も涙なしに食べられなくなった、過敏になったこちらの神経にそいつらが訴えかけてくる、どうか殺さないで、と。不運な者の痛みや悲しみが重くのしかかり仕事が手につかない、相手の想いが伝わってきて好ましくない事実から目を背けるようになる、他者との共有を求め自分の主張を忘れる、孤独に耐えられなくなる、そして社会は心情で動かされ。指導者の感情は暴徒に感染し増幅され、私は怒りを溶かした悲しみの海へ投げ込まれ‥‥‥‥
 氷の世界の生きものが、白い館に住んでいる、亡くなった小さい子のウマレカワリらしい。私は三人の友人にその潤んだ眼をした相棒を紹介し、私たちは追いかけっこをして遊ぶ。相棒は捕まりそうになると鋭い爪を出す、顔は親しげなのだが、動作は油断できない。いつのまにか三人がそいつの召使になっていて、私一人が追われる立場になり、狩られる獲物の気分を味わう。私はクローゼットの中へ隠れ、あとずさりする。奴らが扉を開く「おまえはもう逃げられない。社会をあの物質で弱体化し、混乱に乗じてカネを儲けた盗賊、幸福の幻影と引き換えに生活の窮乏を招いた張本人、最高刑でも軽すぎる」とアールが唸る。「おまえを容赦しない。アレのせいで冷静な判断が妨げられ、抵抗する意志は挫かれ、独自の思考が潰され、挑戦の意欲は削がれる、孤立が怖くて否定を通せない。社会を衰弱させておいて何が文明の転換か」とオーが吠える。「おまえは助からない。自由への夢が文明を築いた、自由はまた余人の生き方そのものだった、辛苦や不幸は自由さえあれば乗り越えられた、たとえどこまで荒波が続こうとも」とジーが喚く。「あなたの実験に利用されて、この私が従順になった、野性を失ったと、とんでもない。私は機会を待っていただけ、あなたの文明が自滅するのを。私は極地の王、あなたが知ろうとしなかった国の」と亡き子の冷たい声が吹きつける。私はクローゼットを奥へ奥へと潜り、そしてついに向こう側へ転がり出る、一面の氷原に目を眩ませながら‥‥‥‥
                                             
 お互いが浮気について打ち明けている。二人とも、裏切りに対する憤怒より自責の念に感応し、和解の泪を浮かべている。それを聞いていた子供たちも感動した様子で、それぞれの悩みを私に打ち明ける、家族に秘密は無くなった。見回せば居間には何人もの同僚が、こちらを注視している。私は誇らしげに語る、社会はあの物質を以外なほど暖かく迎えた、自らの選択に任されたにもかかわらず多くの市民が摂取した、結果は不満の低下に不快の緩和に不安の減少、不幸は去りつつある、そんなふうに。反論をする勇気のある者は一人もいない、同調の雰囲気を乱す困り者も、変人も異常者も。確信を持ち強い感情で共感の渦を起こせば、たとえ極論であっても大勢を巻き込むことが可能。壁の大画面に、我らが文明を指導してくださる御方の慈愛に満ちた御顔が‥‥‥‥ 
 特命委員会の建物は奴らによって包囲されている。私は屋上に陣取り、砕いた瓦礫を委員たちに配る。各階を死守しているはずの同僚は、押し寄せる奴らにもう飲まれてしまったのか、奴らの波は脳まで洗ってしまうのか、恐怖が募る。いつからこうしているのかも思い出せない。委員たちは怯え、今にも泣き崩れそうな表情を見せている、私はかれらを慰める「立法院・穏健党に守旧勢に抵抗組、産族の既得権も文民の反対派も余人の勝手連も、全部が坂を転がり落ちた。穏やかな社会・整った文明を夢見た我らのしたことは歴史に残る、ただ我らが状況を支配できなかっただけ。引かない波は無い、洪水の去った地を治める術は我らのお家芸、夢は先が読めない、望みを捨てるな」と。突然、下階への扉から愛人が現れ、傍へ来る「上を目指すあなたの闘志が、廃虚の屋上で砕け散るとは。あなたが投げた石であなたの家族は傷ついた。この私も。でも赦してあげる、あなたを救ってあげる」と囁くように。愛人は楽しげに庭園を散歩する調子で私の腕を抱える、私はそれまでの緊張が解け足取りも軽く、屋上の端から宙へ跳んで‥‥‥‥ 
 森を切り開いた遊戯施設で、私は三人の友人と不自然な芝の上で玉入れ競争をしている。「委員会は解散、私が作業部会で作成した試案は検討されることなく、産・文・余の連絡組織ともども処分。社会はこのまま、身勝手な言動が横行し、学校・地域・仕事場のどこでも自分の得失のみに執着し、公共の規範を砕いていく。エフの危惧は前倒しになりそう」と玉を打つ。「あの物質は失敗、自殺防止に落ち込み症対策で研究していたのだが。自殺志向の無い人たちが自殺願望に共感したり、それの強い者が同情者を集団死に引きずり入れかねない。欝にかかっていた部下が、あれを使用し老親と一緒に亡くなった。私はそれで会社を辞めた」エフは急斜面に足を取られて。「私の主張は反響どころか相手にもされない。今ネットに流している話だって、読めたしろものではない、と仲間に言われた。編集の下請け仕事も先細り、生活が脅されている。家の家賃を恋人がどこまで負担してくれるか」オーは草むらへ転がった玉を追って躓く。「とにかくあの動けない船を、なんとか売却しなければ、資源屑にしかならないだろうが。私は命の恩人を騙した、カネを払って済むことではないけれど。せめていくらかでも償いがしたい、それにカネが作れなかったら、海へ放り込まれるかも」ジーは玉が落ちた池を見つめうなだれる。ほんの一瞬、私は自分の玉の行き先に夢中になっていたらしい、三人の姿が私の前から消えている。たちまち空が翳ってくる、黒雲に覆われたのか、それとも森の樹々が以前の地所を奪い還したのか。暗がりを辿るうちに、私は獣道へ迷い文明への道を見失った。立ち尽くして天を仰ぐと、巨木の高みから降りてくるものが‥‥‥‥

 またしても恋人と言い争っている、「文明とは飼い馴らしのこと、保護する範囲の拡大する、諸条件に配慮し均衡を崩さない、自然であれ社会であれ。あなたは、黙々と社会の現場を支える多数に並びそこで苦闘する気持ちが無い、かと云って多数に寄与する少数の才能に恵まれているとも思えない。少数派が尊重されるのは、かれらが文明の境界を拡げる突破力だから」どうせ私は半端者、身内の優秀な学者に倣って自分もと背伸び、挫折の末に世界の見方が歪んだ。「認められれば、世の中に優しくなれる。歪んだ現況を批判して、その現状がよこす褒美を欲する。何のために思索するのか、欲しいのは文明の理念か自己の儚い評価か」恋人が親の口調を真似するふう。私はあの挫折期に戻り、部屋も学習室に変容、恋人も今では親と区別がつかない。私は青年が勉強している画面を見る、その青年は私で明日に試験が迫っているのに、思考を放棄し眠ってしまったらしく何が課題かを忘れている。この歳で白紙を提出するしかない屈辱、軽蔑に包囲される重苦しい夢。いつになったら難問から開放されるのか‥‥‥‥
 一部の勢力が前のめりになり陰謀を廻らしていた件は、未然に収拾されたらしい。私の暴露メモは、筋はとにかく関係者を刺激した。私は立法院議長に呼ばれている、嬉しそうな恋人を伴って二人で、高台に聳える城へ行く。時代離れした夢の回廊を歩いてるうちに、狭い船室のような空間へ迷い込んでしまう、「社会の流動化が消費文明の高架を崩落させるとして、下敷きになる者たちの悲惨は量りしれない。枯渇を知りながら貪り続ける、どうしようもなくあさはかな行為は今夜を限り、明日の昼には手遅れ、毎日そう言いつつ食べ放題にしたい放題」とアールが学生時代の顔を見せて。「ある朝、突然、スイッチが入らず、水は出ず、通信も途絶している、必ずその時が来る。あれほど準備をしておくように云われていたのに、昨日までの生活は夢のように去っていく。非情になれない者の生存は保障されない」とジーが昔の汚い格好のままで。「文明は集中の産物、過剰が文明の帰結、向上欲の駆ける世界がどこまでもという夢を見続けられなくなった今、この文明は終わった。次は、向上を願わず、蛮行に逆らわず、衰退を甘受する社会を基底に据えてみて」とエフが若い頃のそぶりを。「それを踏み台に、再び昔の夢を見る。古くからの魔術、文明はしぶとい」と燃えるような気性の恋人が。喧嘩の時のように熱く、そしていつのまにか手には武器。恋人は濡れた瞳で、私を狙う。誰にも記憶されない惨めな一生ではなかった、私は恋人に見つめられて甘美な最後を‥‥‥‥
 きれいに片付けられた部屋は、久しぶりである。散らかっていないだけではなく、家具も見当たらない、引っ越しは今日だったようだ、忘れていた。「対立や異論の許容を理由に行動を先延ばしにしてきた、本音は欲張りでわがままな現在を捨てられないから。日毎に衝撃の破壊力が膨らんでいるというのに。危機の切迫に一刻の猶予もないというのなら、世界は結束しなければならない。それぞれの利害に論争に駆け引きに妥協、このままでは文明の諸相が個別に撃破され、挙げ句の果て、全壊に到る。皆が認識を高めなければいけない時に、雑音で社会を紊し土台をほじくりヒビを入れる、あなたもその有害な屑の一人」恋人は捨て台詞を投げつけて、私を家から叩き出した。いつかはこうなると思っていたが、それが今とは。道を踏む足にも現実感が無い。放心して歩くうちに、出会いの頃に来たことのある公園へ。私はそこの広い砂場に喪失を埋め、無心に遊ぶ。砂を隆起させその起伏を地形に見立て世界を創る、するとやがて、山々の深く刻んだ谷に細い流れまで見えてくる。私は目を近寄せ、そこへ行く。源流は岩山の洞窟より発していた、私は水を渡り遡る、と闇の奥から何かがこちらへ、目を凝らすと舟が現れる、誰かを乗せて‥‥‥‥

紙片は焼かれた。

 船内の狭い娯楽室で、四人は卓を囲み、混ぜたり積んだり揃えたりの取り合いをしている。「予測される事態に震えるはずが、脳機能が防御の仕掛けを働かせ意識を鈍化させる、災厄の響きに耳を塞いで。無反応によって身を守る、受容できない事柄に対し意識は無感覚の砦に籠もる。この生き延び戦略は、当事者の回復を助ける環境が在って可能になる。環境が急変する過程で、加えて集団的狂騒と感覚麻痺に社会が委ねられれば、滅亡するのは文明にとどまらないだろう。しかもその原因は当事者に発する」エフは高めの手を好む。「慢性化した水不足や諸物価の急速な値上がりに対しては、配給制の導入と各種自由の制限、楽園へ還る見込みは失せ世界は凍結へ向かう、予想通り。われらが汚染を拭い、文明の環境に従う仕組みが整い、凍結は解除されない。問題はその間、どれだけの犠牲を数えなければならないのか、が」アールは低めで手堅く。「構造が硬化していく社会は、それこそ停滞どころか衰退の証し。交雑が活力の文明を非常事態で純化し、対立の弁証や少数派の尊重は氷詰めに。衰亡へとなびく布は単色に染められている、使命を任じ権能を揮う系譜がまず腐り始める。社会の混乱や分裂を強制で抑えにかかる、その強引さは環境にも適用されかねない。かれらに未来を託せるわけがない」ジーは鳴いて手を作る。私は運に縋り目が出るのを待つ。勝負がつくと、扉が開き険しい顔が覗く。「頼みは聞いてやった、さあ早く支度を。まずお前」勝った順、他から奪い良い気分の者から海へ突き落とされる、まさか私が一番になるとは‥‥‥‥沈黙沈黙ジジイー脂汗にまみれ
 静かな入り江の水面を、点在する飛び石のような岩を伝って泳ぐ。柔らかな陽射しを浴びて波は安らかにその光を吸い水も冷たくない、崖を蹴り水底へ揺らめき沈んだあの時のように。出目の私を救ってくれた人が、座礁した船の甲板に腰掛け、白髪のエフ・長い手を振るアール・角を立てるジーの三人に説いている。「産族は苦境に陥り、治家は打つ手が無く、文民は不平を鳴らし、余人は騒ぎを起こす。次の段階では、産族が分解し、治家が没落し、文人が絶望し、余人が離散する。離散して苦労して生き抜く。波乱の世ともなれば、萎縮する産族、深刻な治家、悲嘆に暮れる文民に比べ、われらはけっして弱くはない。危難に際して脱出口を見つけるのはたいがい余人、とは云っても、組織力に優れた一党の暴力による支配体制が敷かれれば、産族は屈し、治家は服し、文民は諦め、われらは潜るだろう」と口を尖らせ。私は皆に別れを告げ、水に浸かっている感覚を断ち、滑るように湾の外へ。水路を抜けた途端に、海面が傾いてくる。それはしだいに急坂になり、私は隆起する水を切り波頭へ曳かれていく。頂きに跳ね昇り振り返ると、岸はどこまでも遠のき‥‥‥‥
 眼下に見知らぬ世界が渦巻いている、どうやら地図に載っていない場所へ突入したようだ。船長の私は昂揚した気分に、窮地を脱しついに文明の果てへ到着したのだ、と船内へ声を響かせる。こいつが宇宙船であることに、私は疑問を感じていない。だからか、近くにうずくまっていた異形の生きものが話しかけてきても、驚きはしない。「あの時代の延長上には災禍が待ち受けていた。科学技術による未来図を描いた文明は、社会の疲弊と環境の限界を無視できなくなり、その暴走に急制動がかかった。一定の均衡が達成されるまで、どのくらいの犠牲を払えばすむのか、未だ先が見えない」とエフを装った白い塊の毛が逆立つ。「快を楽しむ産族・理に屈する文民・幻に惑う余人、かれらの被る痛手を治すことが、社会に仕え事を処する治家の役目。われらは幻滅に浸っていられない、社会を現実に則して再組織し、非文明の暴風に耐えうる居場所を再構築する」と長い手がアールを真似て拳を突く。「いつの世も、弱きを踏みつけ犠牲を他に強いる奴が先へ進む。産族が利を貪り、治家は益を配さず、余人は分に応じない、欲しいものを得る楽しみを目先に置いて、競ってつられて手を伸ばす。届きそうな夢に誘われ、われらは文明を養ってきた環境に無理を強いてきた。環境を激変させておいて文明が激動に見舞われない理屈は無い、言うまでもなく」とオニに変身したジーの舌先が。私はなぜかしたくもない言い訳に追い込まれる、「系譜が辿れる余人を私は知らない、余人はあなた方の内から生じもする、どこへでも紛れる、交じり混ざりいたるところに。とはいえ、あなたたちに言わせれば、役立たず・無駄飯食い・落ちこぼれ、反社会的性向から気儘な浮き草志向まで、迷惑だったり御荷物だったりで。宿無しの私には返す言葉もない。どのみち破局の渦に巻き込まれる、集中により文明の高台を保護するか、分散により文明の辺縁で出直すか。われらが率いる者の出現を待望し、あるいは、われらが熱病に感染し同じ症状に魘されるか。いつだったか君たちは、社会の要に位置する才能は“余人をもって代え難い”とか言ってなかったかな、それでお前たちは私を舐めるのか。どうも誤りをおかしたようだ、そんなに睨まないで、おまけに涎まで垂らして」私は反射的に身を翻しピョンと跳び、天井へ張り着く。私の宇宙服には吸盤が有る、当然だが。制御の不能になった船が、落下していく。きらめく水塊がせりあがってきて‥‥‥‥迫り上ってきて‥‥‥‥

 かれらの昏睡は続く、エフがアレの分量を間違えたのかも。

干上がった沼の底、わずかな水溜りに、四匹の蛙が跳ねていた。四匹の蛙がうつっていた。一匹目は水気を求めて旅立つことに、二匹目は泥に潜り沼が再生するまで眠りにつく、三匹目は末期の水を飲みに来る獣にしがみついてどこかへ、四匹目は卵を水中ではなく身体の中の水で育てる工夫を。
 冒険に出た一匹の行方、地中に籠もる一匹の夢、乗り物にまかす一匹の運、それらが語られるのは遠い先。今聞けるのは、脳機能を拡張する道を歩んだ系の先頭にいる一者が薬をのんだ一匹の語る出世話ぐらい。

 陽の長い時期、氷原の民は白い領に走る大小無数の割れ目を利用し、陽の昇らない月日に備える以上の糧を得ていた。氷の王は、集まった蓄えを使い、出来する様々な事柄を処理し禍を鎮め福を謝す。氷の割れ月と張り月を告げ、氷の割れ具合や空模様を報らせ、励ましを与え幸運を祈る。活動の季節が閉じられ、皆が憂いを凍結し星々に想いを寄せる頃、光の吹雪が舞い踊りかれらを照らす、太古より続く白い領を祝うかのように。
 その年、割れ月は暦を裏切った。王国はゆっくりまどろんでいられず、融け出した状況への対応に追われる。早めに活動が始まればより大きい成果を手にできる、かもしれない。寒冷期間が縮まれば実入りも貯えも増える、かもしれない。王もそう考え、日差しの明るい間にこれまでないほど活発に動き、民もまた空前の働きをした。遅い張り月が来て仕事が少なくなると、今度は暗い間を遊びまわり捨てるほどの楽しみを味わった。
 凍てつく天を見上げることもなく、夢のような暖かさに満足しているうちに氷の山が崩れていった。次の年、まだ白い恵みが降り積む時分に、透きとおった重い水が落ちてきて雪と氷を洗った。白い野は渡りきれない割れ目で分断され、氷原の岸辺は削り取られ薄くなり消えていく。
 こうして王国は散りぢりに裂かれ、たくさんの孤立した氷塊になり、やがて一つまた一つと没していったそうだ。
 もちろん生きのびた者もいるにちがいない、たとえばた、それぞれ囚われの身となって。今はただ四匹の蛙が跳ねていた。

 広大な雨林の樹冠を縦横に繋いでいる回廊は、いつの頃からか《長い手》と呼ばれ、共和国の繁栄はその維持と伸張にかかっていた。往来の拡大なしには交換の増加なく、交換なしには共和国は持続できない。暑熱の森の豊かな恵みは降りそそぐ雨のよう、われらが貪り尽くせるわけもないと考え、あるいは次々に新しい果実を欲しがる。倒れる木々は昔からあった、それがどのくらい失われたかは気にもとめずに、つい昨日までは。
 花の見頃によって定められた暦が狂ってきていると感じ、咲き揃いの乱れや移ろいの早まりを思う、自分たちせわしなさのせいでそんなふうに見てしまうのかもと考えもする。往来を急ぐかれらには、痛みの激しい《長い手》の補修をせかされ加えて新設の負担も迫られ、疲れがとれず休まらない。
 その年、晴れ顔に輝く陽の出番が少なく、鈍い黒雲は不機嫌に膨らみ足踏みした。同時に咲くはずのない花が一斉にほころび、虫や鳥の様子がいつもと異なった。ものの腐りや不治の病いがあちこちで目立つようになり、吹き荒れる風雨にたくさんの《長い手》が落ちた。
 以来、中央へ運ばれていた収穫や交換物は著しく減少し、放棄された区域の群れがなんとか持ちこたえた場所へなだれ込む。或る集団は寸断された森の経済網の再建に背を向け、別の集団は自ら通路を切り離し自存自衛の孤立を選び、いたるところで中央の要求を拒む。強制が中央の生き残り法となり、協力しない者達を追放する、反抗する連中の木を焼く、そして抵抗勢力による強権への絶望的攻撃は森をも燃やしていく。
 悲しみか怒りかは知らず、天の熱い涙は乾かない。苦難を共にせず和を結ばず、天に感謝した昔を忘れ呪いの叫びを響かす国にしたのは誰か。
 逃げ場を無くした一家が、手長種族には地獄とされている葉の重なりの底へ下りていく。戻ってきた者がいない根の国へ。晦冥の下界を迷いながら生き抜くうちに、かれらは背伸びして歩くようになった、という。
13の月の遠い光の記憶

 押し寄せる砂を塞き止めている堰堤は日毎に嵩上げされる、砂の高波を防ぐ材料は幻の帝国の遺跡を砕いて用いる、見事な石組みがいつの時代に築かれたのかなど、オニうんちには興味がない。かれらの祖先が建てた昔の都か、彼方から来た異貌の種族が造った城か、いずれにしろ元の姿を知る術はとっくに失われているのだから、どうでもいいのだが。
 遺跡に点在する深井戸は涸れたことがなく、汲み上げられた水は給水所へ配られ、第一の掟として毎日必ず同じ分だけの使用を、オニバナナオニみくの客とオニまやが飼う獣とオニいわしが刈り取る作物、それに第二の掟である緑の保全、のみに限り許される。旱のクニの水場を通るヤカラは、生命の水と引き換えにオニあいかが必要とする資材や情報を提供する。オニみれあどもも必要以上にものを溜め込み、それらもまた取引の材料にした。旱が激しいほど来訪者に売りつける水の値はつり上がり、集まった各地の産物でオニまなかたちは財を成す。砂の襲来さえなければ、この富で新たな帝国の実現も可能だったろうに。
 その年、砂の津波はついにすり鉢の縁を越え、低地の緑色を押し流した。オニまやのカシラは旱の祭主として、旱が目先の益を取り返しのつかない損で償わせると予感していたから、旱のカミを恨みはしなかったが、あっさりこれを捨てた。どうせ砂に飲み込まれてしまうのだから、周壁に石を積む労役はもうやめる、水の掟も破ってかまわない、獣は痩せる前に喰ってしまおう、カシラは盛大な宴を催し倉の宝物を手下に欲しいだけ取らせた。
 以後、立ち寄る旅人すら途絶え、文明の器は刻々と埋まっていく。オニらなどもの半分は緑の園をめざして砂の海を渡った、あとの半分は遺跡の範囲に生活圏を縮め、廃虚のすべての石を積み重ね内側を囲み砂の軍勢に防戦を挑む。不自由しない水が、跡形もなく土に返った帝国の最後を潤おす。木立ちや畑は隅々まで手入れされ、養われている獣も家族のように大切に扱われ、帝国の残骸で外の光景を遮られたここは楽園のよう、だが、ひきこもり守る砦に勝ち目はない。
 なにものも抗えない砂津波がやってくる、幻覚を見たオニみくが水位の下がった深井戸の底で水の動きを調べていた。そいつは無謀にもこの暗流に小舟を漕ぎ出し、闇の中へと消えていった、水は必ず光を探し当て地上へ抜ける、という夢を浮かべて。

 知られざる先住民の墳墓に刻まれた文様の解読を、自費出版で発表したパズル愛好者によると、そのホカと呼ばれる社会は、四つの役割を分担する家系により運営されていたらしい。
 学の専門家ではない著者は、四つの系譜は身分ではなく階層の上下も構成してはいないという仮説に立ち、それぞれの特色と関係を叙述しながらこの言語の意訳を試みている、それによれば‥‥‥‥
 産族・治家・文民・余人、四者の異なる字体が交互に絡んで模様のように見えるが、これは四重奏のような複合文章である、四重奏のような。
 そこが或る種の民主主義社会だったことはどうやら確からしい。人民の権利と軍事力の廃止が、四字体の融合部分に表わされている、まるで絵のように。
 立法院の議席は出自により四等分され、選挙では票数で上回っても各々の定数を超えた議席は得られない、と記されたところでは四者が入り乱れて自己の存在理由を歌っている。
 社会そのものである生産活動に携わり、農漁・商・工・全ての分野に於て経営層から労働者まで、豊富な人材を擁し、暮らしの必要を満たし現実を支えてきた。資源・道具・動力・技術・製品・市場そして資本、勤勉に競い合い労を惜しまず、利を図り業に励み休みなく経済を動かす。欲するものを追わず、望みの実現に挑まず、努力を怠る者に将来はない、と産族は緩急に乗せて流れを奏でる。
 いつの時代も統治や行政に身を捧げ、下級の役人にはじまり執政の最高責任者に及び、衆の暮らしに仕え社会の舵取りに務めてきた。福祉・教育・治安・環境の細部から大局に到り、全体に奉仕する組織へたえず人員を供給し、議会でも主導権を発揮することが多い。法秩序に従い対処し、公益を優先し、個別の利害にとらわれない、と治家は抑えるように低音を響かせる。
 日々の出来事から世界を動かす事件まで、時代の動静から今昔の世界観まで、世間一般に知らせ社会を可視化してきた。なによりも、自然・人文の知や学を考察し万象の理を探究する場へ、優れた才能を届け文明の向上に貢献する。何事も軽視せず、いたるところで生じる様々な問題を人々の眼前へ提起する。考を重ねず論を避ける者の側にはけっして与しない、と文民は高音域を受け持つ。
 自由の大きさが選択の幅を拡げる、自由の不安定さが対応の柔軟性を引き出す、自由の強さが想像の奥行きを深める、自由の逸脱性が行為の限界を破る、〜しきれない残余が境界を溢れる。きめられた位置に留まらない、組織が苦手で権威を重視しない。であればこそ、転換期の困難な状況に際しては、従来の枠組みに拘わらずそれまでの道を捨て、系譜を無視し変革の先駆けを社会へ送った。家に入らず民を称さず族に拠らず、多数に属さず衆を恃まない、と余人は三奏者の調べに異なる曲を。
 この制度は、他の界から亀甲の筏に乗りここへやってきた四人の男女の伝説に由来する。
 四人は一つ屋根の下で仲良く暮らし、二人の女が男女二人づつ子を産み十二人に増えた時、父祖は気付いた“このままでは子供たちが大きくなり次の世代を形成する際、一家の中で結ばれてしまい困ったことが起きる、離れた場所へもう一つ家を建て、家族を分けてそのうえで共に力を合わせよう”と。 こうして二家族の八人の子は成長し、やがて他家の相手とそれぞれ結ばれ、二代目に四組の家が誕生した。父祖たちは、四家のいずれかがこの小さな世界を一人占めしないよう、四つの役割を定め血筋に印した。老いた四人は四家に一人づつ引き取られ余生を送ったという。
 ところで、パズル愛好者はここに、国家・階級・文化・主義等の用語を発見できなかった。これらの用語が不必要なくらい内容は、そのものでつらぬかれていた。こちらに問題があったのか、それとも向こうに‥‥‥‥。

「これからは今までのようにはやっていけない、そう言い続けてどのくらい経ったか。いろいろ耳にしても、今を逃したらもう後はないとわかっていても、行動どころか決断も先へ延ばす。ようするに、耐えきれなくなる日を待つ、世界は大きな犠牲を払う、ただし自分の損害はどういうわけか軽め。自分より不運な連中を眺め、それにより脆弱化する自身には目をつむり‥‥‥‥
 私の職業は、明日に期待すること。現代文明の持続は可能、危機を機会に、これまでの進路の転換を図り、人々が生活の仕方を改め、新しい技術が間に合えば。こんな希望と展開をうたい、製品の企画開発に携わりながら、仕事が進むに従って先行きを暗く読んでしまう。
 私も当面はこのままなんとかの内の一人、不自然な豊かさを達成した世代、まずまず順調な一生を味わえた世代、転落に怯えているのはここへ含まれる者たちで、貧しさの水面に浸かりもがく大勢にとっては今が耐え難い。私たちの持っている図面はもう取替えがきかない、場当たりの修正や遅蒔きの変更を重ねるのがせいぜい。別の見通しでもあれば教えてほしい」酔いの回りが早い産族のエフは、旧友に職場では吐けなかった泣き言を。
「昔ながらの落ち込み開始か。前向きが売りの産族が、顔を上げられないほど胸の痛む行ないでもしてきたらしい。持てる者の辛さを愚痴で解消する、それとも一緒に落ち込んでほしい、できれば元気づけてほしい、もしかして後ろを向きこちらの反応を窺い仕事に役立つ着想でも拾うつもりかな、どうなの。

 利益と損失は数値で示される、評価は総合的に判断されるとはいっても目に見える結果が大事、利益なくして分配の増大も将来への投資もない、社会は利益を追う者に依存している、当面は。ついでに、飲み食いや遊びの費用は概ねエフに負担させてきた、三人とも。
 現在の滑りようがさらに加速すると想定して対策を練るのか、それとも傾斜を緩やかにして激痛を和らげる程度の方策しかないのか、そもそも滑りの止まる着地点とはどこを指してのことか、文明の後退か、荒廃か、崩壊か、終末か。あちこちで、転換・再構築・新生・飛躍の可能性が探られていると云うのだけれど。いずれにしろ良き未来を想像しようとした。ない者に良い世界が待っているわけもない、その辺りなにか良い知恵を貸してもらいたい」エフに目を遣りながら、治家のアールは無力へ導く暗い見方を懼れるふう。
「エフはどうやら悪い予感の流れに魅かれ、波乱を望んでいるらしい。今はまだ流れに落ちる不安より、それを眺める余裕が残っているので、捨ててもかまわないものがあるかのような。展望が持てない、余力のあるうちに突破を試みたい、どのみち災厄に襲われるのなら早めに、などと密かに妄想しているのでは。仕事に行き詰まった、結果に裏切られた、つまりは切実さが個人的事情に起因しているだけ。

 二人に限らないが、もっと現場の実情を語ってほしい。さて、不快な批判をする前に、アールがはぐらかすので私が代わりに構図を描いてみよう。
 社会全般に於て、ある程度の水準を確保するため、あるいは事態のさらなる悪化を防ぐための方策を二つ。一つは目的を定め目標を設けて強制により構造を更新する、改革体制によるか革命権力によるかは別にして。一つは現行の枠組みを調整しつつ不具合に対処していく、そのつどの選択が合成されて方向が決まる、全体的な構想なり転換なりを採用しない。
 権力が資本と結びつく度合によって、弱い部分を切離し強い部分を走らせようとする傾向が増減する。より速く走る者が勝つ競争状況では、遅れる者たちは次々に置き去られる。この設定では、小数の上層家族と大多数の下層人民に二極化し、抑圧と隷属あるいは反乱と争奪の果てに荒廃するか、いずれにしろ気候変動の心配はどこかへ吹き飛ぶ、洪水を待つまでもない。
 もちろん後から走って脇目もふらずに先頭を目指す者も居れば、親が用意した道さえ歩けずに倒れてしまう者もいる、それが世界を振動させ社会を揺さぶる、だから希望を捨てきれないしそれに幻惑されもする。後者が前者を追いかけていく勢いで、先進の分け前に与かる部分が膨らむ。一方、先進の地では勢いに欠けた者を減らす、つまり負担を軽くするために。
 伸び盛りの部分が縮み退く部分と交代していく以上に前へ出る、それにより全体が牽引され文明の限界が押し拡げられてきた、これまでは。物理的な限界は当然として、我が限界文明に替わる世界像が見つかるまでどうやって過ごすか、どの路線を選べば衝撃を和らげられるのか、持てる者がどこまで手放し、持ちたい者がどのくらい手にしていいのか、社会と環境・獲得する側と奪われる側の均衡は可能なのか。放っておけば遠からず瓦礫の中で次の文明を尋ねる破目になる、皆はどう考えているのだろう」止まらない舌も飲みたい口には負ける、文民のオーを黙らせようとジーが酒を勧める。
「三人とも偉いものだ、いずれ訪れる崩壊の図に現況の不都合な実情を紛らせて、駄目な内部から目を背け重荷は放り出し始末に困るものは外部へ散らかす、中央で特権を享受しているくせに。明日に迫る脅威を思案するのも、逃げ道の用意か抜け駆けの準備か、自身の。

 先食いしている者が指を食わえ眺めている者に、“こんな食べ方は止めよう、素材は不足するし排出物も処理しきれない”見せつけたあげく品切れ、もうあなたの番は回ってこない、私の所で締め切りになったというのではない、それに文明の器が壊れてしまえばいったい誰から食えなくなっていくのかを知ってほしい、とか言う。自分で重荷を積み上げておいて、軽く扱っていた他者へ押しつける、どころか他者の困難を自身の重荷と見做し振り捨てにかかる、私にも覚えがあるから。
 身近な毎日で手一杯の者になにが出来るというのだろう、聞かせてくれないか」あまり飲めない余人のジーは、視線を宙へ泳がせる。
 ジーは廃船を改造した方舟の試乗会に三人を招待した。予備校時代に友人となり進学後もなぜか誘い合わせて遊び、社会へ出てそれぞれに辿る方角が異なり距離は開いていったが結びつきが弱まることなく、会う機会は減っていったものの互いの社会的地位を気にしないですむ仲間、心の底まではともかく。実のところ、久しぶりの集まりに、四人は思い出話や雑談をするつもりはなかった。
 深刻な表情は、エフが企みを隠す擬態ともなる。
「最低だな、あちらの不幸に目を塞ぎこちらの不幸を差し出す。違う、あちらの幸を掠め獲ってこちらの不幸を押しつけた、かな。洪水を起したのはこちら、商品・欲望・情報・イメージ、水位も速度も落とせない。流され沈んだのはあちら、便利も快適も大量も贅沢にも無縁だった世界。いまさら水が退いても元には戻らない、当分は溺れながら泳ぐほかない、足の立つ底が見つかるまで。
「本当に見つかると思っているの」
 ところでアールは、水際の線引きをしている機関に勤めているのだから、どこを沈むにまかせどこに囲いを築くかは知っているはず、高台の富強は低地をどれくらい確保するかで決まる、でも高みを削ってまで低地を埋める気はないようだ。歴史ではこういう時、低地をさらに低く掘り下げ、浚ったそれを土手に積む、どうなったかは言うまでもない。
 オーが以前から書き散らしている駄文は、何かの情報に基づいているのかそれともただの妄想か。昨日まで続いた生活が社会全般に渡って脅かされる事態は何によって招かれるのか、どのような異変が突発しどのくらいの打撃を各自に及ぼすのか。破局の光景を描写し切迫する危機を訴える読み物は多い、過敏な反応はやがて過剰による慣れから鈍くなりさらなる刺激を求められる、冷静な予測は情動的な予想へ、終いには娯楽に供する空想話として消費され。
 ジーときたらこの六つも舳先がある奇怪な艦艇を浮かべ、アールの同類達が主導する世界を離脱するつもり、滅びへ向かう文明からの逃走、子供の時に見た夢の乗り物を手に入れ、内向きの戯れに没入、どちらにしろ余人らしい。彼が笑わせてくれるので、少なくとも三人は救われる、たとえ数分間といえども。それはそれとして、借していたカネは今日こそ返してくれるのだろうね、まあカネがあるわけもないから、この玩具は貰ったも同然。ジーが約束を無視し、どこかで蝶が舞い、世界の経済は破綻へ、とかいう効果も。明日の天気は下り坂、外れてほしい」
 カネの話で酔い心地を損ねたふりをしながら、アールは宙を睨み苦笑いする。
「船舶として機能させるなら許可や登録が必要、動力の無いボートではないようだし。そもそも彼は操縦資格を持っていない、ここを出るどころかそれ以前に違法行為だらけ、こいつは没収されジーは監獄行き。たとえ手続きを取ってもこいつが船と承認されるかどうか怪しい。芸術的物体として展示するか、遊園地のアトラクションにでも売り込むか、マスコミに変わりものネタで取材してもらうか、それも無理そう。聞いたところによれば相当なカネと人手がかかっているはずだから、まさかこれで放置して後は考えていない、そんなわけはない、とすれば。
 何でも文明の落日に結びつけるオーなら、これも崩壊の兆候と捉え、時代の流れ抗うあがき、あるいは劣化しつつある社会が生む狂気の一例、とか記すのだろうけれど。警告に見せかけて不安を煽る、鈍感な政治と怠慢な行政が責められるのは当然、治家と産族の一部が現体制の脱却を目指しているのも周知のとおり、しかしその裏側で謀略が画策されているなどとまで書くのは如何なものか。おっと、嫌な言い回しを、つい。政治の中枢から排除されているように感じている余人や文民にすれば、出自による議席定数の改正は人・民のさらなる政治的影響力の縮小をもたらし、特権層の既得権を固めるばかり、とオーは述べるが、出自に由来する制度は廃止するべきだとするいつもの主張と矛盾してはいないか。出自の制を無くせば、場合によっては議員の多数を文民が占める選挙も有りうる、治家出身の勢力が減少し、旧来の構造を組み換え新しい手法で諸問題に対応する、そうは考えられないだろうか。現行の仕組みはそのままで党派の交替に望みを託してきたが、日々の暮らしが最優先の課題である以上、生活の向上を掲げ明るい社会を訴える構図は同じ、色の着け具合でどちらかの配分に差がついて、次もこの差を巡ってのやりとりに過ぎていく、手法がどうの仕上げがこうの、目先の関心事に触れる深みを欠く絵柄の前で。画布が破れかけているというのに。私ならまず、破れを修復する、そして下地を塗り直す、絵は様式を改め未来を視野に収める。オーは自覚していないかもしれないが、絵の描き変えではなく支持体を引き裂く側に手を藉している。人々の合意によって構成されている文明を破壊するのは不信であって、天変地異ではない。厳しい批判は結構、できれば非難ではなく建設的な考察を。
 文民の不満分子は、官・業の、治・産の複合による独占支配を指摘するが、どの系譜の出身かに関わらず優れた人材は政・官・財の枢要な役職に就いている事実を故意に無視してかかる。たとえばエフの母は余人、父方の祖父は文民、父親が職人あがりの技術者だが、彼の魅力も才能も出自の複雑さに関係していると過大評価されるほど。なにしろ系譜が単調であることは可能性や選択肢を狭め、ものの見方まで先祖より引き継ぎかねないから、私のように。
 エフの視界は広いのだが、見え方に偏りがある。たとえば、立法院の在り方から治家が仕切る諸規制まで、所定の手続きによって改革する余裕はもう失われた、といって付託された力を行使できる政治が、非常事態の制を敷き至急の課題に取り組んでも、崩壊へ向かって減速するよりは加速させる結果を招くのが関の山、と判断したり。食料も燃料も資材も製品も見た目には溢れているようで実は限界が近い、恐るべき不足の忍び寄る足音を耳にする位置に居れば暗い画像しか目に映らないのかも。産族の下層が余人へ移っていく、エフは相方に去られ、二人の子は、上が事故で亡くなり下が行方不明。減る生産層の行き場が無い、矢印は明らかに下を指しているのに、何かを変えれば再び上へ登れるかのような幻想がまだ消えず、それに根拠の無い期待をかけて今夜も寝入る、明日はなんとかなるし明後日は誰かがどうにかしてくれるだろう、そのうちなんとか。
 一夜にして堰が切れることもある、しかし手の施しようのない奔流がなにもかも押し流してしまう神話風の絵図もまた幻想。社会を維持する合意さえあれば、犠牲を受け入れ非情にも耐え痛苦にも慣れることは歴史が示している。引き返しようはないけれど、古い絵を見つめて文明の再建を祈り惨禍をくぐり抜けいずれ夢を抱く、実現できそうになくとも。
 エフがいくら懐かしい絶望を奏でても、騙されない。いつもより底が浅い、余所に気を取られている、ろくでもない何かに」
 代々治家の親族に育まれた気風を身に付けているアールが、珍しく感情に走り論脈を乱したので、オーは思わず酒をこぼしてしまった。
「あっ、重大な秘密を打ち明けてくれる前触れ、かな。早く話して、こちらで掴んだ情報と照し合わせてみたい。それとも逆にこちらが握っている内容を知るための誘い、のほうか。エフもアールもジーが用意した妖しい乗り物にふさわしい怪しげな代物を持参してきたようだ、そうこなくては。
 私の手土産がどうやら一番ささやかみたいだから、気楽に紐を解かせてもらう。グルグル巻きにされた中身が捏造品、だとしても悪しからず。
 さて、ここに極秘印が押された機密メモのコピーが一枚、或る筋から送られてきた。本物かどうか調べられる限りの手を尽くして、確証は得られなかったが確信は持てた。しかし、公表の仕方が難しい、数ある陰謀説や噂話と同じ扱いをされるか、悪辣なでっちあげと断定されて潰されるか、それなりに耳を傾けてくれていた人たちから見放され、信用されないだけでなく害悪を撒き散らす犯罪人にまで落とされてしまうことすら有り得る。誰にも相手にされなくなることは、私のような者には耐え難い、余人はいざ知らず。
 いたるところで不祥事や不都合が表面化する、隠蔽されたり未処理のまま不明とされたものがある、故意か惰性か怠慢か、組織や機能に欠陥なり不備なりがある、それやこれやは文明の持病であっていつの社会にも存在することぐらい皆が解っている。だから、選出した代表を介し、言論を通し、あるいは直接行動を起し、たえず修正と改善を働きかけ、浮かび上がる不具合を時代に合わせて手当てしていく、応急措置に予防策に。通常は、問題が発生し、対案が提起され、説明と対話により理解を得て、支持を要請する、という経緯で事を運ぶ。けれど、問題が全身に及ぶ重症の場合、今までのやりかたでは処方できない場合、どうするのか。
 メモの出所はアールの勤務する特命委員会、そこの作業部会で策定している計画の覚え書き。しかも彼の役目は今夜のこの場と無関係ではない。私を黙らせるための値は幾らになのか、メモはアールとエフのどちらかが買い取る、私を説得して味方に引き入れる、握った弱みとの取引きでジーに私を黙らせる、どちら。
 ジーが学生運動をしていた頃の過激な一派が最近になって再組織され、現体制に一撃を加える動きが実行段階に入ったことを政府も公安も察知しているのに、なぜかこれを事前に阻止しようとしない。いつもの事なかれ方針か、弾圧と非難されるのを危惧してのことか、世論の動向を見定め慎重に対応する、そうではないだろう、アール殿。
 あの連中とジーはとっくに何の関係もない、ほんとうかな。この船はガラクタに見せかけたハイテク装備の特殊艇、連中が建造費を負担、エフからの借金もカモフラージュ、ちょっと飛躍しすぎかもしれないが、子供のイタズラにしては‥‥‥‥。
 仮に、自分たちにとり望ましい方向への誘導を画策している勢力が、新過激派の不穏な動向を利用し、緊迫した情勢の裂け目に恐怖を仕掛け、その臨界を弾みに主導権を奪取するとしたら。治家の一部だけで練られた策略ではない、むしろ産族の計算・余人の発想に近い、系譜を横断して繋がる結社の存在をかねてから疑っていたのだが‥‥‥‥。
 エフの二番目の子は家出して二年以上経つ、時折カネの無心で連絡をよこすだけという。その子が学生の時、私に一度会いに来たことがあり、文明を守る環境についての考察を活字にしたいと意気込んでいた、“自然の多様性を損なう文明が衰亡に向かうのは当然、自然の堤防を切り下げておいて津波に怯える、自然を優先しそれに仕えることこそ我らの使命”そんなふうな話だったと記憶している、若いからな。“快楽を追求する恥知らずな高台の一族一家が自然保護を指図しながら、実際は踏みつけられている低地の住人に自然を削り取らせ、その恵みを高台へ掻き集める”そうも言っていた。親を責め自分にも刃を突きつけるのは、青年期にありがちな心理。高台への集中は文明の業、そこに集積する知や想から目を逸らさず、社会へ斬りかかる手段を間違えないでほしい、目的は君も私も一緒だ、と答えたように思う。
 目を背けたくなるようなエフの描写には、未来の壊れた社会ではなく現在の崩れた家庭が投影されている。破綻した私生活の虚ろを特別な行為で埋めようとする例は少なくない、内側の苦痛を外側へ放ち自身の失敗を他者へ転嫁する、つまりはアールの同類。互いに疑いつつ協力関係にある、二人は探りを入れながら噛み合う。ジーにはエフの資金提供を上回る金額が金融機関からの貸し付けられている、いったい保証人は誰なのか。
 メモでは、“文明の持続可能な水準を想定し、どの要素が重要でなにが決定的かを調査し、過去の事例と重ね合わせ現在の図面に記入、これにより選別の順位と範囲を測定する。具体的には、過激な連中の活動を刺激して混乱の雪崩を起す、それを阻止できない現行の仕組みに換えて強力な過渡期体制を構築する‥‥‥‥、続きは雪崩を待って”とある。
 朽ちかけた枠組みを腐った部材で補強するあさはかさ、冗談としか考えられない、それが恐ろしい、歴史は愚行を排除してこなかったから」
「お金になるようなメモではありませんね」
 オーは自分が揺れているのは酒のせいではない、と気付きジーを睨む。三人がまくしたてる話に酔い、出航を言いそびれた。これは池のボート漕ぎに似たようなもの、そういう顔つきをしてジーが呟く。
「自動操縦で数時間の処女航海。こいつで約束の地へ行けるわけもないが、うねりを増す世界の荒波に飲まれたくない。文明の波打ち際に暮らす者としては、予期される嵐をなんとか耐え忍ぶ工夫が要る、私はこれ。岸から離れた安全な区域でいろいろと悩むまともな三人組にはお笑いぐさだろうけれど。もっともオーの陰謀説に比べれば、私の工作など論外。
 オーが本当に憂慮しているのは、水・土地・自然の産物に頼っている産族や不安定で順応性の低い余人が環境の変動に伴って移動しはじめる、多くが都市へ流れて吹き溜り、荒廃の割れ窓が数えきれなくなる、重荷に足を引っ張られての犯罪・暴動、当事者の制御が利かなくなった果てに内乱。三人ともそいつが心配、底辺からゆっくり沈むなり干からびるなりは、いくらでも心を痛めていられるが、中央の炎上は自身の破滅に等しい。
 好きにしたい人たちを養う余裕が文明に残っていないと言うなら、誰が文明を豊かにしたかを教えてあげてもいい。この劇を演じるのも味わうのも前列に並んだ者の順。今まで先を争わずに這ってきた私の番は、おそらく終りのほう。ならば没落の悲劇を最後まで眺められるかもしれない。長い間、群れるのを好まないとか位置づけがしにくいとか、何もしないが何でも出来るなどと、いい加減に指摘されてきたが、特定の志向が無く広域に分散しているので、そちら側のように思い煩うことがない。余人のひねくれ者は、文明に期限が迫るのを悲観していない、難民になり盗賊となり革命家にもなれよう。
「そんな単純な話ではなかろうが……」
それはそうと、エフが半日前に連絡をくれ、あれはアールとオーにはここで発表するからそれまで黙っていてほしいと‥‥‥‥、もう構わないだろ、話しても。
 脳科学分野に関係した薬品を製造する会社の『脳』部門に於て、残虐性や凶暴性、猟奇的志向等の社会に反する異常性格を治療する目的でエフが研究していた物質は、エフに側面から世界を救えるかもしれないという夢を見させた。会社は、犯罪の予防にいくらかでも寄与し売り上げや企業イメージを回復させるのが目標、責任の取れない夢想は頭から追い払い、決められた範囲から逸脱する研究は許さない。つまりエフは解雇された、会社の重役だったのに。
 感受性を鋭くし、共感を増幅する、敵意を抑え、協調性を高める、副作用は、涙脆くなる、お人好しになる、くらい。そういう効果をもたらす物質の抽出に成功し、動物実験ではまずまずの結果、以前は獰猛だったケモノと、自宅で仲良く同居しているそうだ。これがなにを意味するか、アールもオーも私より先に知っているらしい、やはり。
 アールの目つきがいつもより柔らかい、エフの愛他剤を利用すれば社会の荒廃を食い止められる、まずどこのどいつに飲んでもらおうかと考え‥‥‥‥、ああ、エフが船の完成祝いにくれた極上の酒、今、四人で空けたあれに入れてあった」ジーはどういうわけか怒る気になれない。家庭を顧みず仕事に心血を注いできた者にとって失職はどれほどの打撃か、おかしくなっても不思議ではない。
 エフが顔を歪める。四人の顔が歪んでいる 蛙のように
「悪かった、謝らなくては。
 最初にこの件をアールへ相談した折、特命委員会の反対派や文民の反抗的分子、余人のワガママにも効き目があればよいのだが、とアールが思わず本音を漏らしたような。オーが気分を害するのは判っていたけれど、これの欠点をあげつらうのにはオーが必要、私は適していない。アールの立場やオーの視点から見直し認識を深めなければと。ジーには余計なことは言わないほうが、と思って。
 自身で何度も試してみた結果は、直後は効力が小さくゆっくり、やがて一時間くらいで眠くなる、夢が鮮明になり醒めても記憶が薄れない、その朝から数日に渡りあらゆる現象がこちらに働きかけてくる、感覚が鋭敏になり周囲が無視できなくなる、対象へ感情が寄せられ同調する、相手に好意を覚え寛容になり態度も素直になる、聞いたり言ったりに感動が高まり猜疑心や嫉妬が消える、ジーにいくらカネを貸しても気分が悪くならない、気弱になったり言葉を失ったりする、泣き笑いが止まらず支離滅裂な気分に襲われる、ただし、元へ戻ると心身ともに疲労感が大きい。発現の個人差はまだ何とも、私以外の実験は今回が初めてなので。
 船はゆくゆく通り矢のはなを」エフは歌を口ずさむ。
「困る、明日から三日の休暇だが、家族で旅行の予定。普段の親らしさが無くなって‥‥‥‥、つれあいに告白をしたり厳格な家風を嫌悪する子供たちに同情したり、どうしよう。
 打ち明けるが、来週にもあなたたち三人を委員会の保安部が聴取する予定、あくまで参考人であって取調べではない、非拘束の保障はなんとも‥‥‥‥             
 オーのガセネタとは違い、委員会の調査では、“人民の僕であり公益を負託され運営してきた治家の権限を見直す。立法院の構成から治家の系譜を排除し、産・文・余の意見を直接に行政へ反映させる”という反治家組織の存在が確認された。《底流》と称するそいつらは、“諸機構の多数を占める治家の出身者が、専門知の有利に依拠し、思い切った改革を妨げている。社会の防壁が臆病で鈍重なのも、人民のための慎重さではなく、自分たちの現在を保つため。これからは、治家の権力が立法院で足場を固められないように制度を改革する、いかなる手段をとろうとも”行動を起こす覚悟。委員会はこの愚劣な観念を砕く、安心なくして信頼なし、奇策は弄さない。
 ジーやエフの夢遊の産物、行方を晦ます程度がせいぜいとしか思えないこの変造船も、《底流》に無関係とは言い切れない。私は昨日より、浮遊するこいつの監視を要請してある、罠にかけたようで申し訳ないが。
 情緒の浮音が流されないよう論理の錨を下ろす。エフの発見は、その意科理を切り離し、社会は風まかせの漂流に。暴風を前に非情な決断も果敢な行動もとれなくなる。4人はそれぞれ同じ紙片を持ち、ばらばらに うろつきながら かってな順で文を読みあげはじめる

 私は家族も職業も社会も大事にしている、伝統も理想も守っていきたい、あなたたちは特に。私だって、古い治家の不遜な気風が、上方の権益から下方の保身へと官庁に吹き渡るのを見たくない、制度を司る手腕に優れた役人が、謙虚さを忘れて影響力を拡げるのは反対、思いはあなたたちと一緒だ。ああ、置かれている立場よりここの空気に左右されてしまって。私もどこかへ行きたくなった、困った、これの対抗剤は用意していないのか」アールは今にも泣き出しそう。
「攻撃的な批評は書けなくなる。対決の緊張感は奪われる。嫌味や皮肉も言えなくなる。非道や不正への憤怒、反発や反抗の激情はどうなるのか、よくもそんなものを酒に混入して‥‥‥‥
 冷淡に薄情に突き放しに意地っ張り、厭われる性向のいろいろと良くない影響が社会にあるにしろ、それが悪い結果を招くとは限らない。非情な意志や不動の信念が、冷徹さや疑ぐり深さがなくて、文明が成り立つわけがない。その物質で社会の図体を絞り体質が改善され、文明は壊滅を免れるという思い込みの筋書き、あるいは、自滅の可能性も。もしかしてそちらがエフの本音か‥‥‥‥、地獄への道は善意で敷詰められている、と云われているし。
 私は恋人との喧嘩が絶えない、双方が言い分を頑なに貫く、誤解と曲解をぶつけあう、なのに別れられない。時には相手を傷つけかねないぐらい言い争いをする、興奮し外へ出て暫く帰らないことも珍しくない、それでも相談を持ちかけあい、論議を吹きかけあって、共に依存する関係に。病的であろうとも、この苦しみと楽しさが絡み合って、絆が結ばれたような気がする。長く深い苦楽によって培われ磨かれた精神に宿ってこその愛他心、上辺の優しさや安易な共感が、厭らしいとまでは言わないが。
 私は恥ずかしいことをしている、どうか赦してほしい。三人に無断で、今夜の出来事を私の関係するいくつかのメディアへ現在も送っている、腕時計に偽装したこの情報端末で。私たちが話したことは、明日は一部の文人が取りあげる話題にすぎなくても明後日にはどこまで及ぶか、無視から大騒ぎまでどちらへ転ぶのか、共鳴してもらえるか叩かれるか、後はメディアの実況を見聞きしている皆さん次第。
 エフもアールもジーもこれで人生が変わるかも。世界だって‥‥‥‥」オーは涙を浮かべ、三人の顔へ向かって腕を差し出す。
「このトンデモ船に値がつくかもしれない、おかげさまで。
 どちらにしろ、それぞれに結構な贈り物を準備していたわけだ。涙が出るほど嬉しい、やはり友人は有り難い。ヤバイ薬・オッカナイ罠・イカレタ話のたれ流し、全ては世のため、のようだ、そうとは知らなかったが。
 私は、三人のような期待も使命も責任も持たず、努力は小さく貢献は少なく負担は軽く、先を急ぎ優位を競う気力に欠け、挫けやすく諦めも早い。そんな奴は消えたほうがと彼岸に想いを馳せ、波打ち際からあの世へ身を投げかけたのだが、底流に拾われここまで運ばれた、それもこの文明の高みから溢れる余力のおかげ。生存の水準をはるかに上回る余剰があってこそ、私の勝手も見逃してもらえた。怠け者が思わぬ出会いに助けられ、倒れもせずなんとか暮らさせてもらえたことに、感謝しなくては。文明の恩恵を浴している一員として、あれ以来、私は世界を楽しむことにした、誰かを楽しませることができればさらに喜ばしいのだが。
 ヘンな薬物のせいか、どうも調子が狂う。
 ゴメン、実はこの船には自動操縦どころか推進装置すら無い、結社の工作船によってある場所へ曳航されているはずだが、でも見張られ追跡されでは、既に切り離されているに決まっている。昔、命を救ってくれた人から、あなたたち三人を監禁するよう指示されていたが、今はきっとどこかの洋上を漂っているのだから四人とも脱出できない。闇の甲板へ出ても、この雨の中では視界がきかない、夜明けを待つしかない、ごめんなさい。
 もし、こいつが本物の船だったなら、自由号にしようか開放丸がいいか、もっと他の名を付けたほうが‥‥‥‥」ジーは頭を垂れた。
 四人はまもなく朦朧として床に崩れたと四人が同時に読み上げた。

 やってきた『すばらしい新世界』の輝く水面に、幸せなエフの家庭がキラキラ浮かんでる。とジーが続けたオーも続けたアールも続けた。亡くなった子はその頃の、家出した子は有望な若者に、別れたはずの相方は恋人時代の容姿、自分の年格好は気にもならずに。私のあの物質が、他者の気持ちや考えに寄り添い理解に努める、全てを分かち合い何事も見過ごしにはできない、そういう脳機能を拡張した。結果として、利己心や自意識の増殖が抑えられ、社会は調和し、文明は進歩し、私の夢が叶った。疑問が湧くこともなく、小さい子の手を握り「今度はぜったい離さない、君を死なせはしない、私が代りになっても」と私は涙声を出す、恋人が若者と一緒にニコニコ笑い「大丈夫、ここは安全な遊園地、みんな友達、悪いことは起こらない、あなたが創った理想郷」と唱和する。二人の表情は親子というより恋仲、私と小さい子を無視して鬼ごっこを始める。私は恋人が青年に捕まらないよう二人を追いかける、かけがえのない子の手をいつの間にか離して‥‥‥‥
 久しぶりに我が家へ戻ると、岬の見晴らし台に建つそこは余人の暴徒に占拠されていた。行方不明だった大きな子が、屠畜人や調理人を率い暴徒の指導者になって現れ、泣きながら私のウイルスを非難する「あんたの行為を責める言葉が見つからない。傲慢にも文明の潮流を変えようと、愚かにも世界の様相を革められると、なんという妄想。あんたが憎かった、死なせた小さい子のほうばかり向いて、生きている大きい子を無視した。仕事を理由にたまにしか家へ帰らず、家族の傷口をカネで手当てしようとした、そんな身勝手な奴がよくもまあ」と哀れな私に。多幸ウイルスの蔓延で、肉も魚も涙なしに食べられなくなった、過敏になったこちらの神経にそいつらが訴えかけてくる、どうか殺さないで、と。不運な者の痛みや悲しみが重くのしかかり仕事が手につかない、相手の想いが伝わってきて好ましくない事実から目を背けるようになる、他者との共有を求め自分の主張を忘れる、孤独に耐えられなくなる、そして社会は心情で動かされ。指導者の感情は暴徒に感染し増幅され、私は怒りを溶かした悲しみの海へ投げ込まれ‥‥‥‥
 氷の世界の生きものが、白い館に住んでいる、亡くなった小さい子のウマレカワリらしい。私は三人の友人にその潤んだ眼をした相棒を紹介し、私たちは追いかけっこをして遊ぶ。相棒は捕まりそうになると鋭い爪を出す、顔は親しげなのだが、動作は油断できない。いつのまにか三人がそいつの召使になっていて、私一人が追われる立場になり、狩られる獲物の気分を味わう。私はクローゼットの中へ隠れ、あとずさりする。奴らが扉を開く「おまえはもう逃げられない。社会をあの物質で弱体化し、混乱に乗じてカネを儲けた盗賊、幸福の幻影と引き換えに生活の窮乏を招いた張本人、最高刑でも軽すぎる」とアールが唸る。「おまえを容赦しない。アレのせいで冷静な判断が妨げられ、抵抗する意志は挫かれ、独自の思考が潰され、挑戦の意欲は削がれる、孤立が怖くて否定を通せない。社会を衰弱させておいて何が文明の転換か」とオーが吠える。「おまえは助からない。自由への夢が文明を築いた、自由はまた余人の生き方そのものだった、辛苦や不幸は自由さえあれば乗り越えられた、たとえどこまで荒波が続こうとも」とジーが喚く。「あなたの実験に利用されて、この私が従順になった、野性を失ったと、とんでもない。私は機会を待っていただけ、あなたの文明が自滅するのを。私は極地の王、あなたが知ろうとしなかった国の」と亡き子の冷たい声が吹きつける。私はクローゼットを奥へ奥へと潜り、そしてついに向こう側へ転がり出る、一面の氷原に目を眩ませながら‥‥‥‥
                                             
 お互いが浮気について打ち明けている。二人とも、裏切りに対する憤怒より自責の念に感応し、和解の泪を浮かべている。それを聞いていた子供たちも感動した様子で、それぞれの悩みを私に打ち明ける、家族に秘密は無くなった。見回せば居間には何人もの同僚が、こちらを注視している。私は誇らしげに語る、社会はあの物質を以外なほど暖かく迎えた、自らの選択に任されたにもかかわらず多くの市民が摂取した、結果は不満の低下に不快の緩和に不安の減少、不幸は去りつつある、そんなふうに。反論をする勇気のある者は一人もいない、同調の雰囲気を乱す困り者も、変人も異常者も。確信を持ち強い感情で共感の渦を起こせば、たとえ極論であっても大勢を巻き込むことが可能。壁の大画面に、我らが文明を指導してくださる御方の慈愛に満ちた御顔が‥‥‥‥ 
 特命委員会の建物は奴らによって包囲されている。私は屋上に陣取り、砕いた瓦礫を委員たちに配る。各階を死守しているはずの同僚は、押し寄せる奴らにもう飲まれてしまったのか、奴らの波は脳まで洗ってしまうのか、恐怖が募る。いつからこうしているのかも思い出せない。委員たちは怯え、今にも泣き崩れそうな表情を見せている、私はかれらを慰める「立法院・穏健党に守旧勢に抵抗組、産族の既得権も文民の反対派も余人の勝手連も、全部が坂を転がり落ちた。穏やかな社会・整った文明を夢見た我らのしたことは歴史に残る、ただ我らが状況を支配できなかっただけ。引かない波は無い、洪水の去った地を治める術は我らのお家芸、夢は先が読めない、望みを捨てるな」と。突然、下階への扉から愛人が現れ、傍へ来る「上を目指すあなたの闘志が、廃虚の屋上で砕け散るとは。あなたが投げた石であなたの家族は傷ついた。この私も。でも赦してあげる、あなたを救ってあげる」と囁くように。愛人は楽しげに庭園を散歩する調子で私の腕を抱える、私はそれまでの緊張が解け足取りも軽く、屋上の端から宙へ跳んで‥‥‥‥ 
 森を切り開いた遊戯施設で、私は三人の友人と不自然な芝の上で玉入れ競争をしている。「委員会は解散、私が作業部会で作成した試案は検討されることなく、産・文・余の連絡組織ともども処分。社会はこのまま、身勝手な言動が横行し、学校・地域・仕事場のどこでも自分の得失のみに執着し、公共の規範を砕いていく。エフの危惧は前倒しになりそう」と玉を打つ。「あの物質は失敗、自殺防止に落ち込み症対策で研究していたのだが。自殺志向の無い人たちが自殺願望に共感したり、それの強い者が同情者を集団死に引きずり入れかねない。欝にかかっていた部下が、あれを使用し老親と一緒に亡くなった。私はそれで会社を辞めた」エフは急斜面に足を取られて。「私の主張は反響どころか相手にもされない。今ネットに流している話だって、読めたしろものではない、と仲間に言われた。編集の下請け仕事も先細り、生活が脅されている。家の家賃を恋人がどこまで負担してくれるか」オーは草むらへ転がった玉を追って躓く。「とにかくあの動けない船を、なんとか売却しなければ、資源屑にしかならないだろうが。私は命の恩人を騙した、カネを払って済むことではないけれど。せめていくらかでも償いがしたい、それにカネが作れなかったら、海へ放り込まれるかも」ジーは玉が落ちた池を見つめうなだれる。ほんの一瞬、私は自分の玉の行き先に夢中になっていたらしい、三人の姿が私の前から消えている。たちまち空が翳ってくる、黒雲に覆われたのか、それとも森の樹々が以前の地所を奪い還したのか。暗がりを辿るうちに、私は獣道へ迷い文明への道を見失った。立ち尽くして天を仰ぐと、巨木の高みから降りてくるものが‥‥‥‥

 またしても恋人と言い争っている、「文明とは飼い馴らしのこと、保護する範囲の拡大する、諸条件に配慮し均衡を崩さない、自然であれ社会であれ。あなたは、黙々と社会の現場を支える多数に並びそこで苦闘する気持ちが無い、かと云って多数に寄与する少数の才能に恵まれているとも思えない。少数派が尊重されるのは、かれらが文明の境界を拡げる突破力だから」どうせ私は半端者、身内の優秀な学者に倣って自分もと背伸び、挫折の末に世界の見方が歪んだ。「認められれば、世の中に優しくなれる。歪んだ現況を批判して、その現状がよこす褒美を欲する。何のために思索するのか、欲しいのは文明の理念か自己の儚い評価か」恋人が親の口調を真似するふう。私はあの挫折期に戻り、部屋も学習室に変容、恋人も今では親と区別がつかない。私は青年が勉強している画面を見る、その青年は私で明日に試験が迫っているのに、思考を放棄し眠ってしまったらしく何が課題かを忘れている。この歳で白紙を提出するしかない屈辱、軽蔑に包囲される重苦しい夢。いつになったら難問から開放されるのか‥‥‥‥
 一部の勢力が前のめりになり陰謀を廻らしていた件は、未然に収拾されたらしい。私の暴露メモは、筋はとにかく関係者を刺激した。私は立法院議長に呼ばれている、嬉しそうな恋人を伴って二人で、高台に聳える城へ行く。時代離れした夢の回廊を歩いてるうちに、狭い船室のような空間へ迷い込んでしまう、「社会の流動化が消費文明の高架を崩落させるとして、下敷きになる者たちの悲惨は量りしれない。枯渇を知りながら貪り続ける、どうしようもなくあさはかな行為は今夜を限り、明日の昼には手遅れ、毎日そう言いつつ食べ放題にしたい放題」とアールが学生時代の顔を見せて。「ある朝、突然、スイッチが入らず、水は出ず、通信も途絶している、必ずその時が来る。あれほど準備をしておくように云われていたのに、昨日までの生活は夢のように去っていく。非情になれない者の生存は保障されない」とジーが昔の汚い格好のままで。「文明は集中の産物、過剰が文明の帰結、向上欲の駆ける世界がどこまでもという夢を見続けられなくなった今、この文明は終わった。次は、向上を願わず、蛮行に逆らわず、衰退を甘受する社会を基底に据えてみて」とエフが若い頃のそぶりを。「それを踏み台に、再び昔の夢を見る。古くからの魔術、文明はしぶとい」と燃えるような気性の恋人が。喧嘩の時のように熱く、そしていつのまにか手には武器。恋人は濡れた瞳で、私を狙う。誰にも記憶されない惨めな一生ではなかった、私は恋人に見つめられて甘美な最後を‥‥‥‥
 きれいに片付けられた部屋は、久しぶりである。散らかっていないだけではなく、家具も見当たらない、引っ越しは今日だったようだ、忘れていた。「対立や異論の許容を理由に行動を先延ばしにしてきた、本音は欲張りでわがままな現在を捨てられないから。日毎に衝撃の破壊力が膨らんでいるというのに。危機の切迫に一刻の猶予もないというのなら、世界は結束しなければならない。それぞれの利害に論争に駆け引きに妥協、このままでは文明の諸相が個別に撃破され、挙げ句の果て、全壊に到る。皆が認識を高めなければいけない時に、雑音で社会を紊し土台をほじくりヒビを入れる、あなたもその有害な屑の一人」恋人は捨て台詞を投げつけて、私を家から叩き出した。いつかはこうなると思っていたが、それが今とは。道を踏む足にも現実感が無い。放心して歩くうちに、出会いの頃に来たことのある公園へ。私はそこの広い砂場に喪失を埋め、無心に遊ぶ。砂を隆起させその起伏を地形に見立て世界を創る、するとやがて、山々の深く刻んだ谷に細い流れまで見えてくる。私は目を近寄せ、そこへ行く。源流は岩山の洞窟より発していた、私は水を渡り遡る、と闇の奥から何かがこちらへ、目を凝らすと舟が現れる、誰かを乗せて‥‥‥‥

紙片は焼かれた。

 船内沈黙の狭い娯楽室で、四人は卓を囲み、混ぜたり積んだり揃えたりの取り合いをしている。「予測される事態に震えるはずが、脳機能が防御の仕掛けを働かせ意識を鈍化させる、災厄の響きに耳を塞いで。無反応によって身を守る、受容できない事柄に対し意識は無感覚の砦に籠もる。この生き延び戦略は、当事者の回復を助ける環境が在って可能になる。環境が急変する過程で、加えて集団的狂騒と感覚麻痺に社会が委ねられれば、滅亡するのは文明にとどまらないだろう。しかもその原因は当事者に発する」エフは高めの手を好む。「慢性化した水不足や諸物価の急速な値上がりに対しては、配給制の導入と各種自由の制限、楽園へ還る見込みは失せ世界は凍結へ向かう、予想通り。われらが汚染を拭い、文明の環境に従う仕組みが整い、凍結は解除されない。問題はその間、どれだけの犠牲を数えなければならないのか、が」アールは低めで手堅く。「構造が硬化していく社会は、それこそ停滞どころか衰退の証し。交雑が活力の文明を非常事態で純化し、対立の弁証や少数派の尊重は氷詰めに。衰亡へとなびく布は単色に染められている、使命を任じ権能を揮う系譜がまず腐り始める。社会の混乱や分裂を強制で抑えにかかる、その強引さは環境にも適用されかねない。かれらに未来を託せるわけがない」ジージジイーは鳴いて手を作る。私は脂汗にまみれ運に縋り目が出るのを待つ。勝負がつくと、扉が開き険しい顔が覗く。「頼みは聞いてやった、さあ早く支度を。まずお前」勝った順、他から奪い良い気分の者から海へ突き落とされる、まさか私が一番になるとは‥‥‥‥
 静かな入り江の水面を、点在する飛び石のような岩を伝って泳ぐ。柔らかな陽射しを浴びて波は安らかにその光を吸い水も冷たくない、崖を蹴り水底へ揺らめき沈んだあの時のように。出目の私を救ってくれた人が、座礁した船の甲板に腰掛け、白髪のエフ・長い手を振るアール・角を立てるジーの一億人に説いている。「産族は苦境に陥り、治家は打つ手が無く、文民は不平を鳴らし、余人は騒ぎを起こす。次の段階では、産族が分解し、治家が没落し、文人が絶望し、余人が離散する。離散して苦労して生き抜く。波乱の世ともなれば、萎縮する産族、深刻な治家、悲嘆に暮れる文民に比べ、われらはけっして弱くはない。危難に際して脱出口を見つけるのはたいがい余人、とは云っても、組織力に優れた一党の暴力による支配体制が敷かれれば、産族は屈し、治家は服し、文民は諦め、われらは潜るだろう」と口を尖らせ。私は皆に別れを告げ、水に浸かっている感覚を断ち、得意の平泳ぎで滑るように湾の外へ。水路を抜けた途端に、海面が傾いてくる。それはしだいに急坂になり、私は隆起する水を切り波頭へ曳かれていく。頂きに跳ね昇り振り返ると、岸はどこまでも遠のき‥‥‥‥
 眼下に見知らぬ世界が渦巻いている、どうやら地図に載っていない場所へ突入したようだ。船長の私は昂揚した気分に、窮地を脱しついに文明の果てへ到着したのだ、と船内へ声を響かせる。こいつが宇宙船であることに、私は疑問を感じていない。だからか、近くにうずくまっていた異形の生きものが話しかけてきても、驚きはしない。「あの時代の延長上には災禍が待ち受けていた。科学技術による未来図を描いた文明は、社会の疲弊と環境の限界を無視できなくなり、その暴走に急制動がかかった。一定の均衡が達成されるまで、どのくらいの犠牲を払えばすむのか、未だ先が見えない」とエフポトフを装った白い塊の毛が逆立つ。「快を楽しむ産族・理に屈する文民・幻に惑う余人、かれらの被る痛手を治すことが、社会に仕え事を処する治家の役目。われらは幻滅に浸っていられない、社会を現実に則して再組織し、非文明の暴風に耐えうる居場所を再構築する」と長い手がアールを真似て拳を突く。「いつの世も、弱きを踏みつけ犠牲を他に強いる奴が先へ進む。産族が利を貪り、治家は益を配さず、余人は分に応じない、欲しいものを得る楽しみを目先に置いて、競ってつられて手を伸ばす。届きそうな夢に誘われ、われらは文明を養ってきた環境に無理を強いてきた。環境を激変させておいて文明が激動に見舞われない理屈は無い、言うまでもなく」とオニに変身したジーの舌先が。私はなぜかしたくもない言い訳に追い込まれる、「系譜が辿れる余人を私は知らない、余人はあなた方の内から生じもする、どこへでも紛れる、交じり混ざりいたるところに。とはいえ、あなたたちに言わせれば、役立たず・無駄飯食い・落ちこぼれ、反社会的性向から気儘な浮き草志向まで、迷惑だったり御荷物だったりで。宿無しの私には返す言葉もない。どのみち破局の渦に巻き込まれる、集中により文明の高台を保護するか、分散により文明の辺縁で出直すか。われらが率いる者の出現を待望し、あるいは、われらが熱病に感染し同じ症状に魘されるか。いつだったか君たちは、社会の要に位置する才能は“余人をもって代え難い”とか言ってなかったかな、それでお前たちは私を舐めるのか。どうも誤りをおかしたようだ、そんなに睨まないで、おまけに涎まで垂らして」私は反射的に身を翻しピョンと跳び、天井へ張り着く。私の宇宙服には吸盤が有る、当然だが。制御の不能になった船が、落下していく。きらめく水塊がせりあが迫り上ってきて‥‥‥‥

 かれらの昏睡は続く、エフがアレの分量を間違えたのかも。砂の雨が宇宙服を洗っている
からっぽのヘルメットが流されてゆく。

展示

 

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