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るゆいつわ

江尻 潔展

2007年7月7日(土)〜7月21日(土)
12:00〜22:00

ことばは人に対してのみ働きをもつわけではありません。ことばには意味がありますが、それ以前に響きがあります。響きは波となって人の心はもちろん、あらゆるものに作用します。草木は風や光とともに響きに感応し、荒ぶる自然の諸力もやわさせていくことでしょう。これが「言霊の幸ひ」です。
江尻 潔
 

 

※ 7月7日(土)18:00〜
  言霊の幸ひ

懇親会 参加費2000円

桑に剣の作品を持ち岩笛を吹く江尻潔

毎日「詩絵」が順送りされる

「ひいつみ」

「うけい」を思わせる太陽の写真3点

「逆木」

江尻家の白樺が虫によって枯れた。
虫に喰われた穴に蜜蝋を流し水晶をはめ込んでいる
 

 

ちょうど一年前になるが思潮社から江尻潔著『るゆいつわ』が出版された。以下は江尻の表現を理解する手助けになればと思い私が書いた紹介文である。  

 

「言霊の幸ひ」 タカユキオバナ  

 命の本質を呼び、呼び出されたものに身体を与える行為として、ひらがなの一音一音を白紙に鎮座させる。そこに響きの居ることの尊さは計り知れない。響きは、読むものの脳内で光に変わりこの連なりがイメージとなる。響きと意識がひとつになる現れ(発光するからだ)として界は開かれるのである。
 『るゆいつわ』は光の名前、その様子、数、光の像、それぞれの間に折りを入れ、これを十七回繰り返すかたちで一枚の紙にまとめられた。表表紙と裏表紙の縁をあわせると七十二折りの白い円柱(光の柱)が出現するように仕掛られている。江尻は始め亀甲の七角形で本の形をイメージした。本全体を使い『るゆいつわ』の光像を立体として私達の目前にも表そうと考えていたのである。江尻の言葉を借りれば、「ことば」から「こと」へとより「はたらき」を際だたせる意図があっての最初の受肉化である。『るゆいつわ』に数が載せてあるのも全く同じ理由だが、「言霊の幸ひ」には変換と統一の自在さが欠かせない。詩波(ことは)を「像」に変換した詩絵(ことえ)とその全体像『るゆいつわ』の光像は、内容をイメージするのにそれらの全貌を一目で直感できる。一度にたくさんのことを言うことができない言葉の働きを補うことができるのである。
 「言霊の幸ひ」を模索する旅は、「光と響きを併せ持つもの」を呼び出そうとする何ものかを意識してか宇宙開闢の大本まで遡る。江尻は言葉の本質を「光と響きを併せ持つもの」と考えているにちがいない。この界を開こうとする何ものかに江尻の意識を重ねることがそのままこの詩波(ことは)集になっていることからしても、この出現に立ち会おうとした江尻のただならぬ思いが読み込まれることになる。
 『るゆいつわ』は光と響きの側面からの創造神話であると位置づけることができるかと思う。それは、「ひみな」を三種の神器として展開されるが、「ひ」は、光と響きでエネルギーを漲らせた勾玉(みかろ)に、「み」は、その身体(状態)で光を捉え響き返すことを象徴した鏡に、「な」は、名前で「はたらき」を意味し、光と響きという諸刃の力を兼ね備えた剣にそれぞれ対応していると思われる。これらは別々に存在しているのではなく、呼び出された後、全自動的に変換と統一を繰り返す大いなる何かの別の側面である。これを内包し私達に至る経緯までもが読み込まれ、私達は、これを受け止め響き返すものとして位置づけられている。「光と響きを併せ持つもの」と意識をひとつにすることによって新たな界を開く。「言霊の幸ひ」が私達に託されたことになろうか。この気づきこそ『るゆいつわ』に託された江尻潔の思いだろう。
 界の成り立ちと現況は、祈りに意識(霊)が依り、ひとつに成ることで開かれ、刻々と変化していく。天変地異に巫女の祈りが有効であったことは神話が伝えるところである。

 

 

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