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SPACE-U

末那のはしけ
山田 稔展

2007年4月7日(土)〜4月21日(土)
12:00〜22:00

※ 4月7日(土)18:00〜
  詩にまつわるパフォーマンス
  オープニングパーティー 参加費2000円

おいしいクッキーを用意しました
玩具のピストルも有ります。
ただし、玉がとび、たいへん危険ですので
お子様はご遠慮ください。

 

 

 山田稔がピストルを持ち出してきたのは人を撃つためではない。「意識のモデル」を創りそこを的として狙撃することは、「意識が意識のことを意識する」このことを強く意識させる狙いがあると思われる。『末那のはしけ』を「意識のモデル」と位置付け、山田の方法から「意識」に迫りたい。

タカユキオバナ

 

展示

 

詩にまつわるパフォーマンス

 

末那の艀  山田 稔

 

偶然にせよ 自分を悪と思えてしまうとき、その思いは耐えがたいものです。その耐えがたさによって、私は自分の良心を実感します。心には 自分にとって自分が 善であるか?という無言の問いかけとして、良心が確かにあると。
ただ注意しなければならないのは良心が気にするのは自分にとっての自分でしかないという事です。現実の私が悪であるかどうかは良心には関心ありません。
さて、一般に人が現代の作品を見るさい、障害となるのは自分の思いを価値としてあつかわない事です。それは、物の姿を確かめるのに必ず他人の手を用いて、決して自分の手を使わないという決意と言って良いでしょう。
とりあえず一時だけ、私の作品に対してはその決意をゆるめていただけないでしょうか。具体的には私の作品を2メートル圏内の位置で見た時に浮かんだことは、どんなに個人的で些細なことでも心でハネないで下さい。それこそが作品の世界の入口なのです。また何も思い浮かばないと言うのであれば、その空白もしくは無も、価値あるものとして扱って頂けないでしょうか。私の作品から2メートル圏内の戯れとして。

  

マナのはしけ

末那と書いてマナと読みます。唯識仏教のなかの用語から頂きました。
マナ識はいわゆる自我ではありません。自我を成立させる器官のようなもので、自我の外に位置します。たとえば、映画そのものを自我とした場合、マナ識は映写機にあたります。
艀( ハシケ )という言葉は、金剛般若経にでてくる筏( イカダ )という喩えに対して、海に出てゆくことをイメージして選び直した喩えです。末那=艀と思って下さい。
ところで私は仏教の信者ではありません。日本語に訳された幾つかの本の読者にしか過ぎません。他の宗教の信者でもありません。
神という言葉がしめすものを実体化したお喋りに興味はないし、諸法無我や色即是空も、他人の行動に対して嘴をはさむ為の、あがめたてまつるべき考えや、そうあるべきとされる姿、理念や理想でしかないなら、お断りです。
私はただ事実を語りたいという欲望の徒です。ですから私の表現の中に仏教の言葉が登場しても、居ずまいを正すことは不要です。要は個人的意見なのですから。

ナンセンス

1953年生まれの私にとって個人の価値を無前提にあるものとし、個人の意思を独立したあるものとする個人という考え方は生活の思想と言える程、日常化していました。
日々に支障がなければ其の儘でかまわない。表面的には死ぬまで変わらなくていい思想です。では死んだらどうなるのでしょう。
個人の意義が生物的にはDNAの時間を越える運搬にあることはわかっています。命の運動から見れば個体に仕掛けられた死は DNAをよりよく運用する為の歴史的自然に対する戦略と言えます。命の個人という形態は命の一時的な投機された姿です。
死を勘定に入れて考えると個人の価値や意思が賭博場で使うメタルの刻印にあたるということが分かります。とても大事なものであることには変わりません。
ですがここまで考えられた場合その価値は宙吊りになったまま、人間の個人には遂に明かされないナンセンスな状態といえます。また個人の意思はメタルの色が、銀か、金か、銅かが当りはずれに作用する度合いのように偶然と空想でしかない状態といえます。

コギト

近代的主体という考え方があります。精神と物質という二元論を立てたデカルトの考えです。デカルトの難しさはその考えがすでに現在の私たちの血肉と化している点にあります。それは自然の様に日常として私たちが従っている思想なのです。
風景のようにあたりまえで、いわば透明になっている思想なのです。この透明怪獣は悪だという訳ではありません。
問題があるとすれば巨大なくせに見えないことぐらいで、あとは私たちに私という引換券を雨のように降らしてくれる有難い奴なのです。
外見的に個体である存在を意思として観る。
デカルトによって設定されたコギトcogitoとはそんなものだと思っています。

無意識

私たちが感情と呼んでいる精神の運動があります。感情の働く世界は、過去に私たちが社会として向き合っていたものです。部族社会段階の意味と価値の世界が扱いの変化を経て感情の世界と成っています。
「私」に精神として訪れるものは、私と私以外の様々な物や人々との関係が、言語や表象として現れるのであって、精神それ自体という物が有る訳ではありません。
感情というのは区分を意味する言葉です。かつての世界現実は親と子とその他だけの現実です。親と子の関係が法であるような世界です。経済的には無限の贈与、海より深い母の愛と、際限無しの収奪、鬼子母神としての存在です。この頃の記憶は個体的にも社会的にも神話や呪術の世界と言えるでしょう。
過去は唯、過ぎ去るものではありません。扱いの変化をへて身体の内に層となって生き続けます。この変化の過程を一般に歴史と呼んでいます。現在において非現実的で心の中だけの事として扱っている事も過去では現実そのものでした。また現在、私たちが絶対に現実と思っている事も、いずれは観念的で心の中だけの事と成るのです。個人の心の内部はそのような歴史の生きた貯蔵庫と言えます。
仏教ではこの貯蔵庫のことを阿頼耶識、蔵識と呼んでいます。精神分析の用語で無意識と呼ばれるものに当ります。その内実については様々な説がありますが共通していえるのは無意識が文字どおり、「書かれるものとしての言葉」であることです。

ゆめ

フロイドが夢の研究をとうして見出した「書かれた言葉として在る心」。この発見は現代思想のかなめと言えます。ここ以後、心を問うことは言葉を問うこととなりました。

唯物論について

一般に唯物論はお説教としての精神論を揶揄するためのお喋りですが、俗に損得勘定とも言われます。損得が取りざたされる以上、話が経済に関わることになります。経済とは物の交換が行われる関係の総称です。マルクス主義は、心に浮かぶ諸々の観念はすべて、何らかの経済的関係(下部構造)の影に過ぎず、人々が持っていると思っている意思などは、物事の影に過ぎないので、科学に基づき本来の現実である経済的関係だけ気にとめていれば万事OKという考えです。
マルクスの考えは手続きをもって心の存在を粉々に磨り潰す力を持っています。そのうえでなお、磨りつぶせない核として自由という概念を物質の運動の契機として取り出して魅せてくれます。マルクス主義とカール・マルクスを私はそんなふうに読みました。

経済生活

さて私たちの物質的経済生活はたんなる物の受け渡しではありません。私たちの手に届くとき物は 必ず何らかの関係を伴って訪れます。
買ったもの、貰ったもの、奪ったものです。経済学における対象としての経済は、交換の関係に意味の重心を移した構造物としての経済です。
乳児の経済生活を構成するのは母からの贈与としてのおっぱいとだっこ等です。そんなもの経済とは関係ないだろうと言う方は乳児になって考えてみて下さい。一般に母性本能などと呼ばれる心的な構えはその女性の固体として在ることの内にはその根拠を持っていません。母性の世界はあきらかに人類にとっての文化的経済生活の課題であって、自然が保証してくれる母性などは影に対する解釈に過ぎません。

能縁

意識の最初の動きを唯識仏教では能縁(ノウエン)と呼んでいます。何らかの対象に対する人間の意識の発生の震えです。
人は受精によって、まず母の胎内に誕生します。ですから能縁という働きが初めて相手にするのは、まだ未分化な自身と母の世界だと言えます。神話よりも古い、太古の世界は絶えず繰り返し女性の子宮を舞台に現実に始まりなおされているといえます。
誤解を恐れずに言ってしまえば、欲情の人間としての実在の母と、リピドーを其体とする未分化な物質の組織的な運動としての子という場面に意識は発生します。
そしてこの場面は生涯にわたる意識活動の基本ユニットとなります

十二縁起

能縁を観想して導きだされた十二縁起という考えがあります。無明に始まり無明に終る。
横スクロールのゲーム画面に上下に伸び縮みする棒がつぎつぎと流れて行くさまを想像して下さい。この棒が無明です。縦に十二段のめもりが打ってあります。 エネルギーとして意識を数量化したといえます。
では無明とはなにか、私はそれを広い意味で「暴力欲」と考えています。バリエーションとして「性的欲望」を置いています。

免疫

他を破壊し食べ尽そうとする欲望。鎧であり拘束具でもある文化を脱がせたはだかの人のすがたは、免疫の機能の延長ともいえます。
その際、自他の区別をおこなうためのセンサーとして自我が必要になります。意識にじぶんを知らせる装置としてマナ識が発生し、暴流でしかなかった意識に投影対象を授けます。ここで私は人の動機に 唯物論的でない動機をくわえることが出来ます。
他を破壊し食べ尽そうとする欲望です。文化の歴史はここに寄り添っています。

所縁 しょえん

のうえんは意識ではありません。意識になろうとする行為です。水面下からもちあがる流れそのものといえます。
その動きが波となった場所を所縁と呼びます。波も水面下の動きも、物としては一つです。けれど波は有る物として捉えることができます。このようなプロセスを対象化と呼びます。
また波のような本体自体がないものを抽象と呼びます。意識となったものはすべて抽象です。ですがひとは抽象にかかわることで動物と区別されます。
会場に能縁弾と名づけたものを置きました。ピストルを使いあそんでください。当った場所が所縁です。抽象の対象が場所であることを体感して下さい。
見えるということは能動的行為です。まだ見えないものにむかっての自分の意識行為があって初めて現実があらわれます。あらかじめ存在する現実など人間には許されていません。


私という抽象は、個人の終るところに始まり、 始まると同時におわっている場所だといえます。
ひとの始まりを受精においた場合、個人としての女性からみて受精卵はワタシデナイモノとなります。このとき受精卵の意識はこの母であるひとに代行してもらっているといえます。この受精卵に意識がうまれるときそれは「だれ」という問いかけでしようか。いずれにせよ母の子宮内壁を対象化して終わります。
終わるというのは、それ以前には、ただ居る者であった者が 抽象という対象化が可能となったみかえりに抽象化機能としての自身から抜けられなくなってしまう事を意味します。 この場面は、もしあなたがキリスト教徒ならば十字架へのはりつけから復活までのエピソードに該当します。ただ居るもの(キリストの遺体)が歴史の一瞬にだけ登場しほぼ同時に変質させられてしまう。
もしあなたが拝金主義者なら、財布から出てゆく瞬間の貨幣を思い出してください。この一瞬は私という言葉の正当な場所がどこかを告げています。                       資本の思想の価値と意味の体系は各項目を別のジャンルの抽象に入れ替えても体系である  ことからもたらされるリアリテイーは当然変わりません。
貨幣があなたに見えるのはレジのうえを通過する一瞬だけです。そこには貨幣のエクスタシーがあります。永遠にその名を呼ばれることのない、有ることと死のあいだに、艀のようにあった存在はどうやら末那識に身をやつし生きのびた様です。

おわりに

富の効能(使用価値)は物やサービスによる優れた快感です。よりすぐれた生の快感といい直してもいいでしょう。
この効能は富自体から、もたらされるものではなく、貨幣価値による交換によって得た、物や他人の労働の効能です。ですから最初の言いかたでは富の価値が飛び越されていることになります。富の価値はよりすぐれた生の快感の保証です。
富は保証の表現されたものと言えます。
この事はふだん忘れられています。お金は使わなければ意味が無い、という言い方は富には当てはまりません。富はお金ではなく保証そのものだからです。ひとり暮しの老人の死後、おしいれから何千万ものお札がでてくることがあります。このような行動の動機として不安という言葉をあてることができます。
富はお金ではありません。富は保証自体なので現実の場面に登場したときには、貨幣という特殊な商品になります。富から貨幣商品そして商品B、さらになんらかの快感へという四回の交換過程はなんとなく分かっていても、肉眼には捉えられない現実です。そしてひとり暮しの老人は文字どおり富を失うことを避けたのです。富は実現された瞬間に富ではなくなるからです。
では老人をそこまで富に執着させた不安とは何なのでしょう。もちろんお札が好きだったという動機も無視できません。私もマニアですので物を集めはじめると欲望に歯止めがきかないことは知っています。しかしマニアの欲望は視覚、まなざしの欲望です。いわば見せびらかすことが含まれた欲望です。欲望の目的は(持っている自分の実現)です。老人は富を見せびらかすことなく死ぬことにより話題になったといえます。
さて富に対するこの老人の態度は一般的な資本の態度でもあります。資本に対する意識は資本の効能にたいして無関心です。またそれは冒頭でのべた良心の悪に対する無関心と同じです。悪とは実現された結果にたいする関心だからです。
良心とは保証です。善にたいする保証なのでしょう。私にはまだよくわかりません。ただ不安はきわめて一般的なこころの状態です。言葉にすると私の場合それは、だれかにぶっとばされて酷い屈辱をうけるのではないか、という文章になります。私は誰かをぶっとばしたいと思ったことはあります。屈辱を与えたいと思ったことはあります。ですがぶっとばされる様なことをした覚えはありません。私は誰かをぶっとばす権利こそあれ、その逆はありえないと自分のことを思っています。
不安とは、できなかった行動の夢をフイルムとして 未来の方向に映しだされた人影への感情です。このことには投影という心理学用語が当てられます。
人はみな自分の場所になにかを投影し、様々なものを見ます。神や海や天も、暴力や欲情や魂も、私たちの肉の心からはじまり肉の心へと回帰します。

END

 

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