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須永は、ハヤフケンの意味するところを、その効能書により老化現象を促進することと位置づけている。また、別書により人生を凝縮させ、元気と知恵を生み出すとしている。これは、ヒトに対して用いられた場合であるが、本展において注目すべきは、須永自ら生みだした幾つもの界に用いられた点にある。須永は、これらの界が急速に老化し、滅することが次の界を生み、その界もまたその次の界もまた次の界も同じ運命を辿ると睨んでのことだろう。 須永がハヤフケン原器なるものを自らが生み出した界に突き立てることは、伊耶那岐命と伊耶那美命の二神が天の浮橋に立ち、天の沼矛を突き立て国土を掻きまわして、引き上げた沼矛の先から滴る潮が積もって淤能碁呂島になったという神話を思い起こさせる。 ハヤフケン原器と天の沼矛が同じモノのように思えたのである。天の沼矛が如何なるモノなのか?この仮説がはからずもハヤフケン原器を読み解くことで明らかになる。 |
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ハヤフケン原器をさらに深く理解する手だてを須永は会場に用意していた。それは、須永が「集中治療中」と呼ぶもので、実際には、適当な時間を決め、ひとり部屋に籠もってソファーに横たわり、自身を鏡に映して見るというものなのだが、須永の誘いに応じて、やってみることにした。 何か特別な乗り物、例えば、一人乗りの舟(棺)に乗った気分になる。この形はハヤフケン原器と相似形になっている。ハヤフケン原器そのものの入れ子であることが分かる。鏡のなかに横たわる自身の姿を見てると、この形が眠る者あるいは死者の格好であることに気づいた。眠りは夢に、死は霊にと無意識の世界へと引き込まれてゆ くのを感じずにはいられなかった。このことは、界が生まれ、成熟し、やがて滅して行くという幾度となく繰り広げられてきた界の歴史が、夢と霊体の仕業であると言わんがばかりに思われた。 |
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夢は、界の現れに通じている。無意識をヒトが祈りを発生させるためと位置づけてみると夢は、祈りに霊を依り憑かせ、溶け合いながら界を創っているのではないか。内包された永遠が限定された界で過ごす時の葛藤を祈りとすれば、この響きに憑依しひとつに成り行く精霊の姿が、そのまま界の形になって行くと思われた。そこには、膨大な個人史が生み出す祈りの帯に依り憑く精霊達のドラマがあり、祈りを自らに取り込んで行く姿がありありと浮かんで見えてくる。 この夢の元気こそ新たな界を生み出す原動力だとすると、なるほど須永のハヤフケンは、天の沼矛を彷佛とさせる奇蹟の秘薬に違いない。 タカユキオバナ |
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