SPACE-U

 

雪ノ面型ノ欠片
深江亮展

 

一番大事なモノを失ったとき意識が見い出す場所、そこを雪の面型と地図上に記す。戦争で家族を失った深江亮は、戦後ここが住処となった。飲んでも呑んでもやるせない、この亡霊の姿に祈りの欠片を重ねる。連続展『地図帖』の第三話、深江の眼差しにはどんな風景が広がっていたのだろうか。「拠り所を捨てる」という春山清との対談も見逃せない。

 

2006年3月9日(木)〜3月25日(土)
12:00〜22:00

※ 3月9日(木)18:00〜 祈りの欠片
対談 春山清 深江亮
*懇親会参加費2000円

 

 

展示

 

 積雪に顔を埋め意識が失われ行く闇の彼方から雪は降ってくる。その途中で結晶する輝き、それが歌なのだ。屈み込んだ東北出身の深江の背中に記憶の雪が降り積る、しんしんと冷える月明かりの夜に、祈りの歌だけがささやかな暖だったのかも知れない。
屈む背に しんしんと 祈りの歌 降り積もるかも
 こちらの界で過ごした記憶は、死と共に消滅してしまうのだろうか?それとも死後も何処かに漂っているのだろうか?霊の内に生前の記憶は残留するのだろうか?それとも記憶だけが独立し漂っているのだろうか?
 人類史は、権力側の視点による極めておおざっぱなものしか残されていない。この界に生まれ、そこで過ごした無数の人々の記憶が漂う場が何処かにあると睨んだ深江は、自身が写っている写真と彼が生きた時代の日常が反映されている写真の一部を切り抜き、コラージュし、ネガの調子でプリントしている。さらに、この同一平面上の隅を見ると、天象図の一部を全く別の時空としてコラージュしている。こうすることで個人史的な記憶の界が、宇宙の何処かに渦巻いている場があることを示唆させようとしているように思われる。

 深江亮は既にこの世にはいない。にもかかわらず何故この様な展が成立するかと言えば、彼の息子が深江亮を名乗り、深江の記憶を呼び出しているからである。

 こちらの界で実際に生活し、その人が歩んだ個人史が無意識にさえ付着してくるものといえば遺品であろう。ゲートルは、第二次大戦前夜から戦後にかけての深江の個人史を象徴的に物語る。ここに付着している記憶の場を求めて彷徨ったあげく屈み込んだ深江は、いつの間にか雪の面型を背負っていた。
 行為する側と行為される側、面型は、その行為の痕跡をくっきりと残して深江に迫る。戦争という極限状態での加害者と被害者、深江は、戦地において何らかで人を殺したに違いなかろう。一方、深江の愛する家族は、東京大空襲において娘一人を残して四人が他界した。やり場のない想いが永久に溶けることのない雪の面型を蹲り背負うというかたちで象徴されている。
面型を背負う鏡に歌の降る

 戦争さえなければ、この面型の意味は全く別のものになっていたことだろう。否応なく国家権力に翻弄された深江の個人史地図を戦後六十一年目に深江の息子深江亮と辿ることになった。                  

タカユキオバナ

見上げれば 歌降る方に 雪の面

 

 

 

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