SPACE-U

 

三浦謙樹展

 

2005年10月8日(土)〜10月23日(日)
12:00〜22:00

 
※ 10月8日(土) 18:00〜
オープニングパーティー(参加費2000円)

 私と他者とのコミュニケーションに関係するモノの中で、他者より与えられたモノを集め、私と他者とのコミュニケーションを目に見えるかたちで提示します。

出品物(予定)

 美術家から郵便により届いた案内状
 使用済パスネット(私鉄・地下鉄の乗降用磁気カード。乗降の履歴が印字される)
 美術情報誌etc.
 電話料金請求書
 クレジットカード利用明細書(プロバイダ契約料金支払いに利用)
 雇用契約書
 給与明細書
 業務連絡等に使用された付箋
 スーパーマーケットレシート

会期中の水、木、金、土、日曜日の正午より、画廊に近接する公園へ、羽根、種などを拾いに行きます。希望する方には、封筒に羽根、もしくは種を入れて郵送致します。(有料となります)但し、雨天の場合は中止します。そのかわりに画廊の庭にコップを置き、雨水を集めます。

三浦謙樹 miu-k@r9.dion.ne.jp
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展示

SPACE-

 

SPACE-侑

 

 

三浦謙樹 制作メモ
  世界を内包する【点・意識・関係】    
                       タカユキオバナ
 上着のポケットから中に入っているモノ達を洗いざらい机の上に並べてみる。携帯電話、運転免許書、車の鍵には鈴がついている。五百円硬貨が二枚、百円玉五枚、千円札と一円、財布を必要とすることがない。楠庵のレシート、昼にそばを食べたのである。おみくじ、鳥の羽が挿んである。ロトシックス、擦りもしなかった。ハナミズキの種、これは秘密である。ここにあげたモノ達は、何らかのコトで私と関係を持ってしまい介在したモノ達である。この背後には、必ず別の何モノかが居り、彼らと私の歴史を象徴的に物語る。
 コミュニケーションに介在したこのようなモノ達をとおして、「関係」のはたらきを意識することが三浦謙樹展のテーマである。三浦は、命に付着するモノ達を様々な視点から意識してきた。今回は、実際に三浦が関係してきたことを提示する。さらに、そのことが何かを捉える時どう影響しているのか、参観者にも体験出来るようにと話し合われた。今あなたが手にしている本展への招待状の地図もそうである。もうお気づきだと思うが、ここには一般的な目印の記載はなく、三浦の視線が捉えた一見見逃してしまいそうなモノ達で構成されている。もしあなたが三浦の視線を辿れば自身との違いを否応なく気づくことになるだろう。
 三浦がこのような表現を手がけるようになってきた背景を探るとすれば、点の作品群を無視するわけにはいかない。「関係」のはたらきを意識することは、点に対する思索から生まれてきたと思われるからだ。
 紙に点を打ってみる。これは三浦が最も得意としてきた方法である。おぎゃあと生まれた時、自身では動き回ることが出来ず行動範囲は自身に集中する。死ぬ時もまたしかり。点はこのことに似ている。生まれる時空と死ぬ時空を併せ持ち、この座の重なりから無限の意識界と繋がっている。それは、あらゆる関係に対応しえる力と言い直すことができる。これは冥想に近い。重力と言ってもいい。ここでの無限の意識界とは三浦の脳内であるのだが。
 点は鎮座する神々の座に近く、この座を繋げて天を地上に描くことは、三浦が白紙に向い何処に点を打とうか思い巡らすことに似ている。点の神秘は、現実に点を打とうとする三浦の脳内の発光をそのまま映し出す。点が打たれる瞬間、白紙を自在に動き回っていた三浦の視線は止まる。三浦の脳内の発光がそこめがけて降りて行くのである。
 一旦点が打たれてしまうと紙との関係が生まれる。この関係を無限に増やしてみる。点達は紙ソノモノになり関係は失われたかのようにふるまう。どういうことかと言うと、点を打ち続けたために紙の地と同化してしまったのだ。点と点の関係性は無限大となり飽和した。 
これは「意識する」から「意識がある」への状態を端的に表していると言える。これをまた「意識する」の状態に戻すには密度差を作ればよい。言い換えれば関係の強いところと弱いところが生まれる時、「意識する」は起ち現れる。意識の範囲でしかモノは見えない、と言った時の意識は、この場合点の打たれた紙であり、その内の関係をみることに他ならない。
 さらにこんなふうに言い換えるのはどうであろうか。世界のあらゆるものが全てあなたで出来ていたとしたらあなたは何?答えは簡単、判別不能。にもかかわらず意識はある。ここから分化が始まったとしたら、私は限りなく小さなあなたの部分。しかもあなたの全てを内在化していると意識する。こうして入れ子式のあなたと私がどこまでも続いていくのは、分化したことで「関係」が生まれたからに他ならない。
 三浦の制作メモを引用してみよう。

C-18
 とても細かい点。最小単位を連想させるもの。
 私たちよりも、遥かに大きいものから見れば、
 私たちの生きている世界も、点に見えてしまうかもしれない。
 世界を内包する点。
 

 私達の意識は、確かに世界を内包する。こんな小さな者が全宇宙を内包しているというこの快感から、それを持続していけば、神の目を自身の内に宿すことになる。何時の間にかあらゆる出来事は、自身の内部で起こり、世界のニュースも私内での出来事となる。もはや他者はなく全てが自身なのだ。
 このことを象徴的に示唆させる三浦の作品がある。それは無数に打った点の集合が紙の地を背景に、ヒト形のシルエットとして浮かび上がるというものなのだが、三浦の制作メモを当てはめると、この点の一つ一つが世界を内包しているとみていいだろう。たくさんの世界を内包してヒト型のイメージになっているのだ。
 このこと全体を「関係」という視点から捉え直せば、白紙に三浦が初めて打った一点と同じことになろうか。何故なら、三浦が点を打ち続け気に入ったヒト形を意識した時点で、そのイメージ内の点と点の関係性は無限大となり飽和する。あたかも紙地上のシンプルなヒト形ソノモノとして閉じてしまう。これは単なる紙と一点の関係にある点の部分がイメージ化したと言えなくもない。一点を虫メガネで拡大して見たら、無数の点で出来たヒト形のシルエットであったという訳である。。このことは、 イメージが作られた時点で一点一点の関係がそのイメージに絡めとられ、あたかもそれ全体が一つの点のようにふるまうところにある。
 「関係」が無限大となり飽和しソノモノになるということは、あらゆるもの全てがあなた自身であったときのようにただ「意識がある」状態で完結してしまうということであろうか。少なくとも三浦のヒト形の作品は、そう言っているように思えてならない。このことは何かをイメージした途端、そのこと以前を内包してしまうということで、三浦から分化した一点も分化以前を内包している。
 どうやら「関係」の無限大飽和に私達自身の身体をも重ねることが出来そうである。この入れ子を遡れば究極粒子で底を打つ。この点もまた内部関係は飽和し「意識がある」状態でスタンバイしているのかも知れない。全世界がそこに在り、未知なるモノとの関係を待ち望むかのように。
 もう少し遡ろうか。三浦が白紙に向かい合った時、三浦と紙との関係はどうであったのだろうか。三浦の制作メモを引用しよう。

C-5
 紙は、木の死体。
 木の死体に、木の絵を描く。
 贖罪? 鎮魂? 錬金術?
 

 白紙を木の死体と意識してしまった時点でそれはもはや白紙ではない。白紙に既に見えない点が打たれているのであろう。見えないこの点達も世界を内包していると思われる。では、そこに木の絵を描くと、視覚の上ではどう見ても紙地を背景とする木のシルエットにしか見えないものが、贖罪?鎮魂?錬金術?とまるで曖昧な点の集合ように意識されるのは何故であろうか?
 木の死体とイメージされる見えない無数の点上に、木の絵を描くために打たれた点達も、範囲を絞りこんでいけば、遂には世界を内包した一点になる。この点もヒト形のところで説明したように、無数の点で出来たシルエットとして捕らえ直すとすれば、この木のイメージを成り立たせている一点一点にも、別の何かをイメージさせるその点特有の世界があることになる。それぞれの世界を持った点の集合が木の絵になると考えられる。しかもそれは見えない無数の点の上に描かれているのだ。このように見えない点の集合と見える点の集合がひしめき合い鬩ぎあう。これは、虚の世界を内包した無数の点と実の世界を内包した無数の点が響き合い、木のイメージを創ることに他ならない。この計り知れない関係から贖罪? 鎮魂? 錬金術?と曖昧なモノとして意識されるのであろう。それは、関係が飽和し何かのイメージが形成されるとその内に既に別の関係があるという入れ子が何処までも続いていくことを意味している。
 三浦は点を打つことを繰り返す内に、自身の命に付着してくるモノ達がこの点達と近い存在であることに気づいた。余りにも複雑な点達の関係を、身の回りのモノ達の内に見い出すようになっていく。何時のまにか点の代わりにこのモノ達を使って、自身が関係のはたらきソノモノになるという思いに至る。今手にしているこの地図も関係ソノモノに成り済ました三浦と言っていいだろう。三浦は、点にもモノにも足がないことを知っている。この足に相当するモノが関係であることに想いを馳せながら町を歩いてみた。視覚に入ってくるモノ一つ一つが三浦特有の意識を理解するには、欠かすことができない存在であることを知った。それは、冒頭に述べた上着のポケットの中から出てきたモノ達にも言えることで、今回、三浦が光をあてようとするモノ達に通じている。
 思えば余りにも多くの介在したモノ達に囲まれている。三浦の命に引き寄せられたモノ達にどれほどの世界が内包されているのかを知る手立ては、あなたの想像力しだいである。

 

 


 

 

「想い出の女」

木内里美 一人芝居

2005年10月27日(木)
18:30 開演

*懇親会参加費2000円

プロフィール

劇団かもねぎショットを経て、フリーに。欧米の各世界演劇祭に参加、
『夢のあるうち今のうち』朝日新聞ベスト5に。舞台『三人姉妹』
『マクベス』(南果歩・段田安則主演)では一人5役を演じる。
シリーズ『陽子ばあちゃん』で、全国を巡回公演。 (熊本在住)

 

 芝居に限らず映画でも小説でも、もう一度見てみたいと思う作品は、それほど多くはない。いやむしろ、そう言う作品にはめったに出会わない。木内里美の一人芝居を見終えた時また見たいと思った。木内の命の輝きが私の内で鳴り止まないのだ。私はこの光が消えてしまうのが惜しくて、こっそりと芝居小屋を抜け出したのを覚えている。その気にさえなれば何にでもなれるよという勇気に満たされ、霊性が密かに奮えていたのだった。あの感動がSPACE-にやってくる。加藤美智子氏と栃木美保氏のはからいに感謝したい。

タカユキオバナ 

 

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