SPACE-U

 

 

 

 

 

 

 

栃木美保

 

 


 

 

 

洞窟に埋蔵された生命感情の発掘
          「トリートメント対話」から宿る新たなる風景
                                    鏡 閑

 かつて、洞窟に住んでいた遠い人々は、もう目覚めることのない者に対して洞窟の外に咲く花で埋葬したと言われている。一体、なぜ、花だったのか。洞窟の中の様々な花粉に包まれた遺骸は、植物とヒトとの生命感情の深いつながりを感じさせる。
 栃木美保の近年の活動をみると、この生命感情を探し続けていたように思える。自身の内面を旅した彼女が、手探りの中で直感的に植物の精油とシュタイナーの色彩に関わることを表現の素材として選んだのもそのためであろう。しかし、この分野に関することは学術的にも多岐にわたり容易に理解されるものではなかった。栃木は知識に翻弄される中で、自身が表現者であったことの紛れもない事実を再認識する。一概には言えないが、多くの知識を得ることが理解を深めるとは限らない。むしろ、「感じる」ことの方が深い洞察力を呼び覚ますこともあるだろう。遠い人々が、死者に対して花を手向けている心情を理解することは、知識の習得だけではそのイメージを持ち得ないはずである。栃木は、熟慮した上で、知識の説明や教えを説くことを放棄し、自然で単純な行為を表現しようと決意したのだろう。
 香りを嗅ぐ、色を感じると言った行為は日常絶え間なくやっているものである。ただ、目先の細々としたことがあまりにも多いため、一つ一つ意識してはいない。しかし、時折、香りや色が心の中にふっと入り込んでくる瞬間がある。それは自然的背景を持つ記憶の中の香りや色である。2001年10/1〜10/8SPACEUで行われたインスタレーションを森へ入っていくような構成にしたのは、雑多な日常から大脳を遮断させ、意識を内面に向けさせようとしているためであろう。それは一つのある意図でつながれ、一つ一つ意味を持つように仕組まれている。個展会場に来た曜日、入場の際、署名するために使われる筆記用具の色、その傍らに置かれた宝石の結晶、個展会場の照明の灯り、中央に盛られた月桂樹の葉、蔦が這う壁の装飾、壁に備えられた月、火、水、木、金、土、日としるされた香水瓶、そしてその香り、それらの全てがある意志から生み出されている。しかし、栃木は決してそれを教えようとはしない。何を感じたのか何を捉えたのか聞いてくるだけである。
 例えば、単色の照明の前に立って捕色することを勧めてくる。単色なのは実は色がない世界と同じである。色の濃淡でしか感じられない空間に静かに佇んでいると、照明で照らされている色は次第に薄れはじめ、眼前の上方に靄のように色がぼんやりと立ちのぼってくる。その色は整然と並べられた絵具のような鮮明なものではなく、ある感情の思いがあり、それに寄り添っている感情の混濁色である。捉えた色を他者に表現してみるといい。恐らく、その色の説明ではなく情景を先に語らなければならないだろう。それは意識が想起した唯一の色であると同時に、自身の意識の範囲を知るものといえよう。栃木は内面の色を見るということを月曜日は紫、火曜日は赤、水曜日は黄色、木曜日はオレンジ、金曜日は緑、土曜日は青、日曜日は無色と敢えて毎日換え、その日々によって捉える意識の幅を知らせようとしている。
 このことをリンクさせるかのように壁面に置かれた月、火、水、木、金、土、日の香水瓶を選ばせる。これは栃木の表現形態の挑戦でもある。なぜならば、来場者の嗅ぐと言う積極的な行為がなければ成立しないからである。しかし、もし、来場者がひとたび栓を開けたならば、生理的にも、嗜好的にも、情緒的にも、自身の内面に広がっていくだろうという自信があったに違いない。この7つの曜日の香水瓶は、栃木が時間や惑星等あらゆる事象から全身で感受したものを、一つ一つ吟味し微妙に調合したものだからだ。意図して調合された香水について、それぞれの曜日に一体何の精油が調合されているのかはその道に精通した者でなければ決してわからないであろう。それぞれの曜日の香水瓶を嗅ぎ、その中で一つだけ心地良い曜日が明白となる。香りの対象を不明のまま、その曜日がいいと決めることは、知識を越えた範疇である。それでは何を決めたのだろうか。実はそれは来場者の痛みの部位だったことが後で明らかにされる。
 会場から出て、栃木より「印象深い香りの瓶は何曜日でしたか」と尋ねられ、それをもとに来場者と「トリートメント対話」を始める。そこでは作品に関することは一切無く、来場者が開いた色、思い出、想起する感情、照明によって捕色した色、香水瓶の精油についてのアロマテラピィーを交えた対話である。これは来場者の内面を感じ取り、その者がいかなる情況にあり何を求めているのか手助けしようとする行動の表出がひとつの表現形態になりうるという新しい試みである。作家は情熱をもって意識を作品の枠の中に注ぎ込もうとする。しかし、その意識には作家の意図しない傲慢さも本質的に含んでしまう。栃木の表現は、それらを一切排除した時に垣間見せる単純な行為、すなわち、「トリートメント対話」によって積極的に相手を理解しようという表現なのである。見ること、嗅ぐこと、触れることによって痛みの部位を知り埋没した生命感情に気づかさせようとしている。しかし、そこには決して強制的な解決や忠告のようなものはない。あくまでも共振していこうとするものである。
 今回、個展の会期を敢えて8日間に限定したと言う。その8日間に照明の色、宝石の結晶、筆記用具の色を意図的に毎日変えていった。それらは惑星、物質元素、地球自体の根源的な要素の象徴である。しかし、このことはただ一日だけ来場ではその差異や意図は不明のままで閉じられてしまう。実際、遠方の人は日常がある以上、毎日の来場は果せないのは現実である。それでも毎日変わる照明、宝石、筆記用具にしたのは、その日の来場が、その人のために開かれ必要としている香りと色であることを栃木美保自身が信じて止まないからであろう。
 数ヶ月後、日常の煩雑な生活の中に栃木より葉書が届く。それは数ヶ月前、来場した時の、単色照明で照らされた会場内の写真であった。にわかに会場内に並べてあった香水瓶の香りが立ち上り始め、あの時の「トリートメント対話」によって開かれた感情が甦ってくる。この葉書は、その人自身の為の内面へ誘う招待状となる。恐らく、栃木自身、1人1人「トリートメント対話」によって感じられた埋没している感情を受け止めながら送ったに違いない。それは美術表現が一つの額縁から離れ、救済的なものになりうる可能性をうかがわせる。栃木は、自身の形を削ぐことによって生命感情の意志を見出し、思いやりを種にして来場者に植えているのである。植え付けられた種は来場者の中で発芽し世代を越えて受け継がれていくであろう。

 

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